大峯奥駈道の南部は30年ほど前までは藪で覆われ通行不能であった。僕らが若い頃は大峯奥駈を縦走するというのは太古の辻(前鬼)までの北半分を指していうのが普通だった。だから当時太古の辻より南を縦走するなどというのは考えられもしなかった。その後南半分が整備され、山小屋まで建設され維持管理され縦走できるようになった。
道を拓き小屋を建てたのは、そして維持管理しているのは行政ではない。「新宮山彦グループ」という一民間団体である。そのことは縦走記の中でも何度か触れたことだが、この「ぐるーぷ」がどんな団体か、その代表の玉岡さんという人がどんな人か、かねてから関心があった。そして資金や労力はどうして確保されたかにも関心があった。昨年末に一応大峯奥駈道の縦走をやり終え、「大峯奥駈道縦走記」としてパンフレットにまとめ、知り合いに配るとともに、新宮山彦ぐるーぷ代表の玉岡憲明さんに送ったところ、丁寧なお礼の手紙とともに、これから紹介する「千日刈峰行と山小屋建設」という手記のコピーを頂いた。これを読むと「新宮山彦ぐるーぷ」のことや道を拓き、小屋を建てた苦労がわかった。
この手記は「禅と念仏」という、宗教雑誌(しかも季刊雑誌)に寄稿されたものである。一般に知られた雑誌でもなく、恐らく一般に目に触れることはないだろう。これから南奥駈道の縦走をやろうという方も多々おられると思うので、少々長いが紹介しておきたい。
僕には宗教心というものがまったくないが、宗教心がなくとも玉岡代表の思いは共有できるだろう。
千日刈峰行と山小屋建設 新宮山彦ぐるーぷ代表 玉岡憲明
子供の頃、我が家の門口に西国巡礼の遍路が立ち寄って行った。その都度、母親に指示されて一碗の米だとか、一銭の銅貨を喜捨したものであった。丁寧にお経を唱える人も居れば、乞食まがいの人は、すぐさま立ち去って行った。その頃より出家或は修行する人をお扶けするのは在家の勤めという淡い概念が芽生えていたのかも知れない。
活動の発端
私は三十歳頃から近くの山々に一人歩きを始めて山の魅力の虜になり、三十六歳で仲間達と山岳会を創立して一応、沢登り、岩壁登攀や冬山等をこなすことが出来るようになった。
山の自然をもっと広い層に知って貰う目的で「山を歩いて自然に親しみ、体験を通してモノを考えよう」との趣旨で、新宮山彦ぐるーぷを創設したのは三十二年前のことであった。そのような折りに前田勇一さんと知り合ったのである。前田さんは田辺市(旧万呂村)の出身で信仰に篤く、当時の太峯奥駈行が、吉野から太古ノ辻までで、途中から下山するのに不審を抱き、要路に何故、南半分を割愛するのかをただしたところ、明治初年の神仏分離令、修験道廃止令の打撃を受けて、修験道は衰退の一途を辿り、僅かに吉野−太古ノ辻―前鬼の北半分が命脈を保ち、南はいまは薮に覆われて通れないと知ったのである。
前田さんの前身は、戦前戦後を通じて可成り大規模な鉄工場を経営して、三百二十名もの従業員を擁し、文豪志賀直哉や音楽家の朝比奈隆とも交際したと聞いている。前田さんの見識の高さや博学にはいつも驚かされたものであった。
その前田さんは一念発起して「さびれた南奥駈の道をよみがえらせ、日本古来の精神文明を見直そう」の趣旨で奥駈葉衣会を創設された。地元である新宮に住む我々として傍観できず、早速二十余名が入会して積極的に行事に参画したのである。
前田さんは知合った頃、すでに喉頭癌におかされていて、声はかすれ、疲れると声は聞きとれない状態で苦しそうな様子であられた。何処の病院でも「あなたは癌です。手術しなさい」と言われても頑として拒否され、持経宿山小屋を建設し、その一年半後六十八歳を一期として亡くなられてしまった。
病状が進行し入院中も、大峯に切々と想いを馳せたお手紙を頂き、前田さんの並々ならぬ想いとその偉大さに打たれた私であった。前田さんがこの世を去られて奥駈葉衣会は大黒柱を失って自然解散となった。その遺志を何とか継承しようと私達の新宮山彦ぐるーぷが立ち上がったのである。
千日刈峰行
それは薮で覆われた南奥駈の峰筋の刈り拓きである。行者の千日回峰行になぞらえて私達は千日刈峰行と銘打って昭和五十九年(一九八四)、前田さんが亡くなられて二年後、その緒についた。道の刈拓きは大勢の人に歩いて貰うためのもので、これは利他行であると共に、自分自身の行として取組もうと仲間に呼びかけた。当時の山彦は手持資金もなく、外部からの援助もなくて、その都度、参加費を醵出しての珍しいボランティアで、誰一人不満の声は出なかった。
太古ノ辻から熊野本宮までの距離は、その都度巻尺で実測して四十五キロ、その内刈拓部分二十四キロを四十七名の仲間が三ヵ年、二十四回の出勤で閉ざさた道が招かれたのである。身の丈ニメートルを越すスズタケ帯は道幅五メートルを刈らねばならず、手前に倒れ込んで来るので、鋸の回転は止まり、暑い夏は風が通らず汗と埃にまみれ、まつわりつく蚋に悩まされ、また雨の日が多く、冬は浅い雪を踏んで殆んどテント泊りを重ねて延べ三百十五日で完通したのである。引揚げる折りは、まるで高速道路としてよみがえった道に満足して、次回への意慾を燃やしたものだった。
一巡目が終った頃には、はや次の芽がいっせいに生えて、竹の繁殖の旺盛に僻易させられたものだったが、三巡目を終える頃には流石の竹も根負けして根が枯れ、繁りは鈍化した。でも台風のあとは百余年のモミ、トガの巨樹が倒れて道をふさぎ、何台ものチェーンソーで倒木との斗いが毎年のように繰返されて来た。
行仙宿山小屋建設
道は良くなったが、玉置神社から持経小屋の間は遠過ぎて、新客は連れて来れないと、第一回熊野修験参加者の山口念誦師(別府市の行者)から指摘されて、ここに新たな大問題が立ちはだかったのであった。これには心底、当惑した。弱小団体の山彦に山小屋を建てることは可能であろうかと。せっかく五ヵ年かけて道を拓いたのに利用されないとなれば元の木阿弥で、無駄骨に終る。と考えるとやらねばならぬ。幸いここは単なる山道でなく、大峯修験の道復興という旗印があり、山彦ぐるーぶの五ヵ年にわたった刈峰行の実績がある。
その問題点は、
一、資金を集められるか。(当初予算一、二〇〇万円、完成時一、八○○万円)
一、水場が近くにあるか。
一、敷地の借用とその造成−労力奉仕に頼る。
一、建築を引受けてくれる棟梁の確保。
一、ヘリコプターでの荷上げ。
等々。そのーつが欠けても不可能なのだ。
資金の方は公共の避難小屋を建設するという大義名分と刈峰の実績が評価されて、どうにか達成された。水場はきわめて不便かつ険阻なところで発見されたが、三度にわたる改修で安心して往来出来るようになり、水の価値認識に効果を挙げることとなった。
敷地の借用は、下北山村と地主の交渉でお願いしたが、仲々難航して村長と製紙会社社長に要請談判をして解決したものの、その造成は、すべて手作業であったため、遅々として進まず、止むなく設計変更で、奥行をニメートルを縮め、その上、奥側約四メートルは床を高くすることをした。床下の岩盤掘削に手を焼いたのである。そのため、五十人収客予定が四十人となってしまった。
平成一、二年はバブル経済の時代で、わざわざ山中へ出張って山小屋を建てようという棟梁は皆無であったが、私達と縁故のあった木下棟梁が理解してくれ引受けてくれたのである。仲間が敷地造りに汗を流していた頃、黙々と一大木を彫り、鮑をかけて用材作りをしてくれていたのである。
九月から四月にかけて漸く敷地が造成され用材も仕上がったところで、砂、バラス等の建築資材と共に大量の荷物がへリポートに集められ、ヘリコプターに依る荷上げとなった。ヘリの飛行は天候に左右され、一方、ボランティアの作業員は日程に束縛されるものだから、日程が一日ずれても収拾がつかなくなる事態となる。幸い、辛うじて予定通りに運び、二日間、九三便五七トンの荷が無事上げられた。
それより基礎工事、引続いて泊り込みでの建築工事は夜を日についでの追い込みで六月末日竣工し、聖護院山伏その他の方々が大雨の中、採灯大護摩供を奉修して下さって無事落慶となった。
その後は小屋回りの土のうに依る仮積みを石積みにやり替え、上面にコンクリートを敷き、木場径を改修し、新しく補給路を開設するなど、現在も手入れが続いている。
なぜ行者を接待するか
太古ノ辻から南、熊野本宮への通が拓かれ中継の山小屋が出来たことから、修験各教団も、吉野から或は熊野本宮から奥駈修行に取組むようになると共に、登山者もその流れが増えて来た。前田さんが提唱された「日本古来の精神文明を見直そう」の趣旨は、深仙宿での六十日断食行中、釈迦ヶ岳登拝や、大日岳鎖場登挙というすざましい荒行を折りまぜた伊富喜秀明行者、大峯順逆三十三度抖擻行の佐藤貫道行者などの修行に現われ、そこに修験道の極致を垣間見る想いの私である。
宗教とは何か。人間の心の拠り所であり、心身の浄化であり、宗教人は人生の生老病死の救いをしなければならぬと思う。かのベトナム戦争で、毎日のように、僧侶が政府に即時戦争を止めるよう焼身自殺を以って抗議されたのを新聞、テレビで報道されていだのは忘れられない。修験道の極致、捨身の行を挑むベトナム仏教にその貞節を見る想いがしたものだ。
最近、登山者の方から「山彦は行者さんの三度の食事を接待されていると聞いておりますが、我々登山者は、すべてのものを携行して自炊でやっています。行者は甘いのではないか」と疑問を投げかけられることがある。それに対して私は「あなた方登山者は自分の楽しみで山を歩いているので、自炊は当然です。だけど行者は修行のために山を歩いていて目的が全然違います。行者の修行の暁には人を救う、という目的があり、その修行を扶けるために接待をしているのです」と答え、一方、行者の方々には「その目的を忘れないよう一生懸命修行して下さい」と申し上げている。
十三名の故人
新宮山彦ぐるーぷが二十年余にわたって取組んだ千日刈峰行や山小屋建設は、前田勇一翁の遺志を顕彰する目的で敗組んで来たものではあるが、「成功は目的ではなく結果である」との諺の通り、世界文化遺産へもいささか貢献し、修験復興隆の一翼を担うことが出来た。前田翁の先見の明を今更ながら感じている。
二十年余、志をーつにしてここまでやって来た仲間は貴重な宝である。この世を去って行った仲間は十三名の多さになっている。私は行仙や持経宿のお堂で勤行する折には不動明王をはじめ役行者、実利行者、前田大先達、伊富喜師、佐藤師と共に友の冥福を祈って二十二本の線香を手向けている。「山は神 人は宝」と信じている私である。
再び大峰奥駈道南部を拓いた「新宮山彦ぐるーぷ」のこと
コメント
2008年08月29日, 16:45 橘 wrote: | No Trackbacks
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ワンダーフォーゲル様
8月22日に行仙宿山小屋を使わせていただいた者です。水場が涸れているということで、運びあげられていたタンクの水も使わせていただきました。しかし、一万円札しか持ち合わせず、心苦しく思いながら、志納箱にはお金を入れずに帰りました。
webでお金の送り先をを探しましたが見つからず、このブログにたどりつきました。山彦グループの送り先をご存知であれば教えていただけないでしょうか。
よろしくお願いいたします。
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