ウォルター・ウェストンは1861年に英国ダービーに生まれた。神学を学び、1888年(明治22年)、英国聖公会・教会伝道協会(CMS)派遣の宣教師として来日、熊本、神戸の教会に籍をおいて足かけ7年滞在し、その間1890年に富士山をはじめ九州の阿蘇山、祖母山、霧島山、桜島などに登った。
1891年(明治24年)から1894年にかけての4シーズンは中部地方の山岳地帯を集中的に探検し、その紀行を1896年に「日本アルプスの登山と探検」と題してロンドンのJ・マレー社から出版した。英文でロンドンで出版されたのは、ウェストンは英国民に読まれることを前提にしていたからだ。
越中・飛騨・信濃にまたがるこの山域をはじめて「日本アルプス」と呼んだのは、お雇い外国人として大阪造幣寮で鋳貨の指導に当たっていたウィリアム・ガウランドだが、それを単行本の表題に用いたのはウェストンのこの探検記が最初で、これをきっかけとして「日本アルプス」という呼称がしだいに広く通用するようになった。
この探検行に先立つ1890年、ウェストンはCMS宣教師の職を辞している。探検行にそなえて職務の制約から解放されたかったのだろう。それほどまでにしてウェストンが山に取り組んだのは何故だろうか。
17世紀以来、英国の上流社会では、子弟の教育の総仕上げとして成人前の若者を大陸旅行(グランド・ツアー)に送り出す習慣があった。それはいうまでもなく、見聞を広げ、旅先での危難に対処する勇気、才覚を養うためだったが、このグランド・ツアーの大きな収穫として、冷涼・陰鬱な高緯度地方に育った北方人が、アルプスの雄大な景観と、この山脈を境とする南北のまったく対照的な温暖・晴朗なイタリアの風光、明るい都市や壮大なローマの遺跡にはじめて接すると、その印象は人生観を一変させるほど強烈なものがあるといわれている。
ウェストンがはじめてアルプスを訪れたのは1878年、17才の時で、2回目は1883年、本格的に登山をはじめたのは、1886年からで、兄ロバートとともにブライトホルン、マッターホルンその他に登った。翌1887年にはヴェッターホルンに登り、危険度の高いトリフトヨッホを越え、マッターホルンに再び登頂、さらにユングフラウとアイガーを狙ったが悪天候のため挫折した。このときすでにウェストンは登山の魅力にとりつかれて、「山こそわが友」という終生のモットーを胸に刻みつけている。
ウェストンが日本に赴任したのは、教会の宣教方針に沿ったものと考えるほかはない。しかしその胸中に、アルプスで点火されたばかりの山への情熱を注ぐにふさわしい舞台を求める気持ちがうずまいていなかったはずがない。
ウェストンは、日本にもスイス・アルプスに匹敵するすばらしい大山脈があることを知ったのは「チェンバレン教授の熱心な説明」を聞いてからだという意味のことを本書の冒頭で述べているが、それはいつのことであるかは分からない。
以上は訳者の青木枝朗氏の解説の要約である。
ウェストンのこうした来日前の「前史」を知ると、ウェストンが無類の山好きであったこと、そして彼が宣教師の職を辞してでも何故日本の山を探検し歩き回ったか、がよく分かる。そしてヨーロッパアルプスを渉猟した人の目からみても、中部山岳の山にアルプスの名を冠しても恥ずかしくなかった。仮に日本人が日本アルプスと命名したのだったら、果たして日本アルプスの名が定着したかどうか分からなかったかもしれない。
なお、ウェストンが書名を単に「日本アルプスの登山」とせずに「探検」を入れたのは、その土地の猟師はともかく、一般には飛騨や越中の山奥はまだ知られていなかったからだ。
「日本アルプスの登山と探検」の内容を紹介するスペースはもうないが、ヨーロッパ人からみた登山や周辺の民情がユーモアに満ちた文章で綴られている。織り込まれている写真は100年以上も前のもので、当時の登山と風俗がよく分かる。訳文も平易だ。




