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プロフィール

  • ID: 1164
  • ハンドルネーム: ワンダーフォーゲル
  • 性別: 男
  • 年齢: 63
  • 住所: 大阪府 岸和田市
  • 所属クラブ:
  • 登録日: 2007年06月16日
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    山行日記山行フォトギャラリー (10) 10

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    「山のパンセ」(串田孫一著、集英社、1990年6月)

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     この本は1957年に最初のパートが出版された。ついで1962年に「山のパンセ2」が、翌63年に「山のパンセ3」が出版された。1966年に「新版山のパンセ」(上下)、1972年に「山のパンセ」(全一冊)にまとめられている。僕が手にしている集英社文庫版は、第1刷が1990年だから、その時点でも30年以上読み継がれていることになる。なかば山のエッセイの古典になりつつある。石井光造氏によると「当時山好きの若者たちが熱心に読んだものであった」(「もっと知りたい日本の山」)という。

     収められている文章は1955年から65年までのほぼ10年間、著者が40代の時に書きつながれたものだ。なにしろ全3冊を収めたものだから、文庫本とはいえ小さいフォントで450ページを超える大著である。しかも著者独特の詩人らしい独り言のような文章と、音楽や絵画にも及ぶ話題(もちろん山にかかわっているのだが)はなじみやすいとはいえない。慣れにもよるのだろうが、読み通すにもエネルギーがいる。

     とはいえ繰り広げられている山への思いは深く広い。著者は相当の分量を費やして山の愉しみを語っているが、山の勧めを決してストレートには語らない。むしろ本式の山登りは、苦しいことであるし、不合理で愚かなことで恥ずかしいことであると繰り返しいう。

     「告白」では、「山登りの悦びを語るのをはばかるようになった気持ちをもう一歩おしすすめてみれば、山での苦しみは決して現代の人たちにふさわしいものではない‥‥私はあえて、山登りは、しなくてすむ人にはやめた方がいいということにした」という。

     「断想」では、「山登りはその行為自体が単純であり、愚鈍であるから、よほど熱中して、われを忘れ、家を忘れ、親兄弟友人の心配を無視し、つとめを忘れ、仕事を忘れ、学生はまず学問を忘れないと山登りを続けて行くことはできない」ともいう。
     また「仮に高校時代に山登りをはじめ、山を登りながらいい成績をとり入学試験にも合格をし、大学を出ていい会社へすらっと入るようなことを考える人がいるかもしれないが、これは大変不心得な人であって、こういう人は試験に落ちないとすれば山から落ちるだろう。これは私としては失言だったとは思わない」とまでいいきる。
     
     こういう厳しい謂は、僕らが若かった時代はともかく、今の若い人に容易に受け入れられないだろう。しかし著者はそれぐらい真剣な気持ちで山に向き合ってこそ、悔いなく山を勧められるし、捨てるもの以上に得るものがあるといいたいのだろう。

     岩波文庫版にも「山のパンセ」があるが著者の自選によるもので集英社版より分量が少ない。
    2008年03月25日 by ワンダーフォーゲル | 山の本の紹介 | 3 コメント | No Trackbacks |

    「日本アルプスの登山と探検」(W・ウェストン=青木枝朗訳、岩波書店、1997年6月)

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     ウォルター・ウェストンは1861年に英国ダービーに生まれた。神学を学び、1888年(明治22年)、英国聖公会・教会伝道協会(CMS)派遣の宣教師として来日、熊本、神戸の教会に籍をおいて足かけ7年滞在し、その間1890年に富士山をはじめ九州の阿蘇山、祖母山、霧島山、桜島などに登った。

     1891年(明治24年)から1894年にかけての4シーズンは中部地方の山岳地帯を集中的に探検し、その紀行を1896年に「日本アルプスの登山と探検」と題してロンドンのJ・マレー社から出版した。英文でロンドンで出版されたのは、ウェストンは英国民に読まれることを前提にしていたからだ。

     越中・飛騨・信濃にまたがるこの山域をはじめて「日本アルプス」と呼んだのは、お雇い外国人として大阪造幣寮で鋳貨の指導に当たっていたウィリアム・ガウランドだが、それを単行本の表題に用いたのはウェストンのこの探検記が最初で、これをきっかけとして「日本アルプス」という呼称がしだいに広く通用するようになった。

     この探検行に先立つ1890年、ウェストンはCMS宣教師の職を辞している。探検行にそなえて職務の制約から解放されたかったのだろう。それほどまでにしてウェストンが山に取り組んだのは何故だろうか。

     17世紀以来、英国の上流社会では、子弟の教育の総仕上げとして成人前の若者を大陸旅行(グランド・ツアー)に送り出す習慣があった。それはいうまでもなく、見聞を広げ、旅先での危難に対処する勇気、才覚を養うためだったが、このグランド・ツアーの大きな収穫として、冷涼・陰鬱な高緯度地方に育った北方人が、アルプスの雄大な景観と、この山脈を境とする南北のまったく対照的な温暖・晴朗なイタリアの風光、明るい都市や壮大なローマの遺跡にはじめて接すると、その印象は人生観を一変させるほど強烈なものがあるといわれている。

     ウェストンがはじめてアルプスを訪れたのは1878年、17才の時で、2回目は1883年、本格的に登山をはじめたのは、1886年からで、兄ロバートとともにブライトホルン、マッターホルンその他に登った。翌1887年にはヴェッターホルンに登り、危険度の高いトリフトヨッホを越え、マッターホルンに再び登頂、さらにユングフラウとアイガーを狙ったが悪天候のため挫折した。このときすでにウェストンは登山の魅力にとりつかれて、「山こそわが友」という終生のモットーを胸に刻みつけている。

     ウェストンが日本に赴任したのは、教会の宣教方針に沿ったものと考えるほかはない。しかしその胸中に、アルプスで点火されたばかりの山への情熱を注ぐにふさわしい舞台を求める気持ちがうずまいていなかったはずがない。

     ウェストンは、日本にもスイス・アルプスに匹敵するすばらしい大山脈があることを知ったのは「チェンバレン教授の熱心な説明」を聞いてからだという意味のことを本書の冒頭で述べているが、それはいつのことであるかは分からない。

     以上は訳者の青木枝朗氏の解説の要約である。 

     ウェストンのこうした来日前の「前史」を知ると、ウェストンが無類の山好きであったこと、そして彼が宣教師の職を辞してでも何故日本の山を探検し歩き回ったか、がよく分かる。そしてヨーロッパアルプスを渉猟した人の目からみても、中部山岳の山にアルプスの名を冠しても恥ずかしくなかった。仮に日本人が日本アルプスと命名したのだったら、果たして日本アルプスの名が定着したかどうか分からなかったかもしれない。
     なお、ウェストンが書名を単に「日本アルプスの登山」とせずに「探検」を入れたのは、その土地の猟師はともかく、一般には飛騨や越中の山奥はまだ知られていなかったからだ。

     「日本アルプスの登山と探検」の内容を紹介するスペースはもうないが、ヨーロッパ人からみた登山や周辺の民情がユーモアに満ちた文章で綴られている。織り込まれている写真は100年以上も前のもので、当時の登山と風俗がよく分かる。訳文も平易だ。
    2008年03月11日 by ワンダーフォーゲル | 山の本の紹介 | コメントを書く | No Trackbacks |

    「名山の日本史」(高橋千劔破著、河出書房新社、2004年3月)

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     本書は全国の名山・40座についてその歴史を紹介した、470ページ及ぶ大著である。名山の紹介だから深田百名山とかなり重なるが、そうでない山(榛名山、武甲山、高尾山、大山、箱根山、戸隠山、比叡山、鞍馬山、熊野三山、六甲山、高千穂峰、雲仙岳)も取り上げられている。

     著者は冒頭の章で日本の宗教と山について次のようにいう。
     古くから名山とされてきた山はたいがい、水の神としてあるいは農耕神としてあがめられてきた。そういう素朴な原始信仰が、はっきりと宗教性を帯びるのは、仏教伝来以後のことである。平安時代以来、仏・菩薩が衆生を救済するために姿を変えてあと(垂)をたれ(迹)たとされる(本地垂迹説)。つまり神と仏の一体説だ(神仏習合説)。全国の名山とよばれる山は、おおむね神仏一体の山岳信仰の霊場として栄えていく。
     だから山は僧によって開かれた。名山にはその山麓や山腹に寺院が建立され、神社が併設され、山上には社が置かれ神が祀られた。「蔵王権現」にみられるように全国の名山に権現が多いのは、仏・菩薩が集生を救うために権(かり)の姿となって現れること、すなわち権現であるという思想によるものだ。

     寺院は僧が悟りを得るための修業の場であり、俗界を離れた山上や山中に開かれた。平地の寺院であっても山号がつくのは、その名残りである。「山寺の和尚さん」とか「山のお寺の鐘が鳴る」と童謡にうたわれるごとく、今でも山岳寺院は少なくない。
     ところが、日本の名山の多くには寺がない。あるのは神社だけだ。寺があってもほとんど目立たない。名の知れた山の山頂に建つのは、たいがい祠だけである。各地の名山の多くは、神社によって立つ霊峰であり、神々の鎮座する山となっている。

     なぜ名山から寺があっても消えてしまったのか。
     著者は慶応4年(明治初期の元年=1868年)に新政府によって出された神仏判然令(神仏分離令)と、その結果起こった廃仏毀釈運動がその元凶であると告発する。神仏分離・廃仏毀釈こそは、日本史上最大・最悪の宗教弾圧であり、文化破壊であったとも。
     日本のにおける宗教、日本人の信仰は、千年以上の長さにわたり神仏一体となって栄え、つづいてきた。それを明治新政府は、神道のみを唯一の国教と定めて、仏教を排斥しようとしたのである。その結果、日本各地の名山、神仏習合によって栄えた山岳宗教の霊場は、ほぼ例外なく仏教色を排除してしまったのだ。
     著者は古来名山と呼ばれてきた日本の山々には、ほぼ例外なく名刹があった、という事実を明らかにすることも本書の趣旨の一つだといっている。
     
     ちなみに、小生の知り合いが「『歴史散歩』の記録」(稲垣泰平著、文芸社出版)という本を最近出版した。教えられたことがある。おおよそ次のようにいう―「神社というのは、もともと村という共同体の繁栄を願ってつくられたものだ。仏教の伝来によって日本の寺院は神仏習合となったが、明治政府は寺を追い出して神社にしてしまった。そして村という共同体の繁栄を願う神社を強引に国家神道(アジア侵略につながる思想)に統合していった。明治政府は神社が多すぎると国家神道をつくりあげていくために支障をきたすので、村ごとにあった神社(村社)を強引に統合(合祀)をすすめた」。
     明治政府は寺を山から消しただけでなく、共同体の繁栄を願う村ごとにあった神社を国家神道にしやすいように無理に統合したことがわかった。
    2008年03月02日 by ワンダーフォーゲル | 山の本の紹介 | コメントを書く | No Trackbacks |

    「霧の南アルプス」(窪田精著、新日本出版社、1994年4月)

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     短編小説集。山好きの著者だけあってすべて山に関わっている。小説だからフィクションである。フィクションだがほぼ体験にもとづいたものだろう。著者と等身大の主人公(比沼)は、尋常小学校の男子同級生40人の約半数を戦死で失う。

    ●「八ヶ岳にて」‥‥子供らから慕われていたその担任の教師は、徴兵され戦地から復員してきてから、深酒し嫌われ者に変わってしまう。比沼は6年の時その青年教師に引率されて登った権現岳に再び登り、その教師がなぜ変わってしまったのか回想し、兵役の非人間性を告発する。

    ●「雹の降る丹沢」‥‥東京に出た同級生が苦学生活に疲れて海軍航空隊に志願する。厚木基地の上等飛行兵曹だった彼は丹沢山中に墜落、死亡する。後年「丹沢山中に墜落機ー残がいと白骨発見」という新聞記事を見て、丹沢山塊の蛭ヶ岳登山を思い立ち、同級生を回想する。

    ●「霧の南アルプス」‥‥当時「兵隊に行くのを嫌い、入営を拒否して山で死んだ」という、北岳で遭難した同級生の噂が広がった。後年その同級生の遭難碑を訪ねて北岳をめざしたが、遭遇したのは浩宮の一行。大随行軍団のためにぎゅうぎゅう詰にされた山小屋の気分を描く。

    ●「雁ヶ腹摺山」‥‥小学校の同級生が転校した先の金鉱精錬所が閉鎖になり、生活に窮した老坑夫らが炭焼きを始めたが、恩賜林を切り出してしまう。監視員をしていた同級生も懲役刑を受け、ために遅れて入営した彼が「前科者」扱いされる悲惨を描く。

    ●「富士山頂まで」‥‥反戦活動で入獄し、南方の島に送られていた5年間、母親は村から80キロも離れた三峰神社へ願かけに毎年通い、浅間大社奥宮めざして富士山頂にも登ったことを没後耳にして富士登山を思い立つ。
     「日本じゅうの若い衆が、みんな戦争に行っていたときじゃ、表向きは戦争祈願ーーといって登るんじゃが、出征しているわが子の無事を祈りに登る親や、老人などが多いようじゃったな‥‥」という叔母の話はリアリティがある。

    2008年02月22日 by ワンダーフォーゲル | 山の本の紹介 | コメントを書く | No Trackbacks |

    「山の頂の向こうに」(田部井淳子著、校成出版社、1995年11月)

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     著者は女性としてエベレスト初登頂したばかりでなく、7大陸の最高峰に登頂している著名な女性山岳家だ。

     このエッセイ集が出版された56才の時に、すでに50座以上海外の山に登っているというからすごい。43才で30キロ青梅マラソンを完走し、45才からスキーをやり始め、54才の時運転免許をとったという。「英語もさらに勉強したい」「和太鼓などの伝統芸能にも憧れている」「シャンソンも歌ってみたいし、謡曲もやってみたい」「お琴のけいこにももっと通いたいし、ジャズピアノやドラムにも興味がある」という。もちろん「登りたい山の計画はたくさんある。どんな小さな国の、どんな小さな山でも、その国の最高峰というのがある。それにも興味がある。北極や南極点にも立ってみたいし、スペースシャトルに乗って宇宙から地球を眺めてもみたい」という。

     最近の著者のホーページをのぞくと、2000年3月、九州大学大学院比較社会文化研究科修士課程修了(研究テーマ:エベレストのゴミ問題)とあるし、現在年7〜8回海外登山に出かけ、現在までに55ヵ国の最高峰に登頂とある。

     このパワーと好奇心は一体どこから出てくるのか。「日本女性の平均寿命まであと30年近くある。ますますギンギンに燃えながら、自分らしく密度の濃い?生?を重ねたいと思う」と結んでいる。

     「お茶碗を洗うのなんかいいよ。そんなの誰がやったって同じなんだから。お母さんは、お母さんにしかできない原稿書きや、FAXの返事や手紙の整理をすれば」といってのける夫さんも、またまたできた人である。

    2008年02月20日 by ワンダーフォーゲル | 山の本の紹介 | コメントを書く | No Trackbacks |

    「エベレスト・ママさん」(田部井淳子著、新潮社、1982年2月)

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     著者がエベレストに登頂したのは1975年5月、35才の時である。3才の女児の母だった。そのエベレスト登頂までの著者の山登り半生記。半生を語るにはちと早い年代だが、何しろ女性として世界で初めてエベレストに登頂したのだから注目されて致し方ない。

     この本の半分以上は女性だけのパーティで登ったアンナプルナ峰とエベレストの二つの8000級の登頂記が占める。感情的になりやすい女性登山隊は「女のたたかい」でもあったと赤裸々に記されている。

     エベレスト登頂の際には7000越のローツェフェースで雪崩に巻き込まれる。一時は登頂中止かという事態に追い込まれるが、類い稀なる意志で登頂にこぎつける。それだけでなく著者らは企画の段階からさまざまな困難に追い込まれるが、企画を実現させエベレストに立てたことについて「アンナプルナ以来、ヒマラヤ登山は技術とか体力も必要だが、特に必要なのは『本当にやるんだ!行くんだ!』という意思だと思うようになっている」と述べている。

     事ほど左様に山狂いを自認している著者のことである。山キチは多々あれど、それほどに希有な山狂いはどうして生まれたのかと自ずと興味がわく。
     「中学から高校時代は、毎日がバイオリンとピアノとコーラスの練習に占められいる平凡な女生徒にすぎなかった。しかし、ゆっくりでも一歩ずつでも登れば頂上に立てるということが、体育に劣っていた私に自信を持たせたのは確かなことだった」「ただひたすら、一歩一歩登るという行為、何のためなどという理屈もなにもなく、ただ体を使う動作の中に私は自分の確かな存在を意識することが出来た。そして頂に立つというひとつの区切りある山登りが、私に確かな満足感を与えた。山をとりまく自然の広がり、空気、あらゆるものが体中の臓器にしみわたる。ここにいる自分が本当の自分なんだ、一歩一歩汗して歩いたからこそ今ここにいるんだという自己存在を、私は山登りによって存分に味わうことができた」と山登りの魅力を語る。

     登山は自己の存在を確認するきわめて人間的営為といえる。だから登山は古来より万人を引き付けてやまないのだろう。

     この作品は最初1979年12月「山と渓谷社」から出版された。yama-kei classicシリーズの一冊として、新たな解説などもくわわり復刻版が発行されている。

    2008年02月18日 by ワンダーフォーゲル | 山の本の紹介 | コメントを書く | No Trackbacks |

    「岩登りの魅力」(吉尾弘著、ユニ出版、1978年5月)


     本書はクライミングの技術・理論書である。もう30年近く前の出版物で、すでに絶版となっている(出版元そのものもなくなっている)。著者の「垂直の星」を読み返したついでに、もう紙が赤茶けた本書を読み返してみた。

     縦走やピークハントの山歩きばかりをやっている者にとって、岩登りは無用かといえばそうでもない。著者は「縦走などにおいても、リーダーに岩登りの経験が蓄積されていれば、岩場に遭遇した場合でも状態を正確に把握でき、適切な判断と指示で、パーティの安全を高められます」と述べている。
     そういう関心もあって還暦前から岩登りの初歩を練習するようになった。縦走の途中で岩場に迷い込むかもしれない。そういう場で恐れおののくのか、正しい技術と知識、経験で通過できるかどうかでは山歩きの楽しみに天と地の開きができる。あるいは初歩的なザイルワークを身につけていれば、岩場のある縦走コースにチャレンジすることができ、山歩きを楽しむ幅が広がろうというものである。
     たとえば懸垂下降ひとつ取っても、どうしても岩場を下降しなければなくなった場合、肩がらみの懸垂下降の方法を身につけておれば、たやすくクリアできる。急な雪渓を登ったり下降したりする場合も、ピッケルとザイルを組み合わせてアンザイレンして確保の体制をとれば安全性が保たれる。本書はそれらのことが分かりやすく絵解きで説明されている。平易でわかりやすいのは著者が勤労者山岳連盟で多くの初心者に教えてきた経験が生きているのだろう。まさに教えることは学ぶことである。

     著者の遺稿集「垂直の星」(本の泉社)で、なぜ岩に登るのかについて「筋肉を使う快感、精神の緊迫感」と紹介した。本書ではさらに「自分で岩場の弱点をさがし出し、かぎられた条件の中で足場と手がかりを組み立て、体を目的意識的に動かし、力学的に安定を保ちながら次第に空間を足下にしてゆく行為には、筋肉の快感と満足感があり、それだけに十分な爽快感があります」とその魅力を展開している。これで「筋肉を使う快感、精神の緊迫感」という意味がよくわかる。

     本書は岩登りの技術・理論書であるが、「用具について思い出すこと」「穂高の岩登りと、涸沢の思い出」「確保ー私の体験から」など、随所に著者の体験が出てくる。そのことが初心者にいっそう説得力をもたせている。著者の山を愛好する者へのかぎりない愛情、山での死の悲しさ、登山のもつヒューマニズムへの信仰とでもいえる信頼、そんな著者の主張が具体的な激しい登攀の裏付けによって、至るところで展開されている。本書は類書にありがちな解説書ではない。

    2008年02月16日 by ワンダーフォーゲル | 山の本の紹介 | コメントを書く | No Trackbacks |

    「垂直の星 吉尾弘遺稿集」(日本勤労者山岳連盟編、本の泉社、2001年9月)

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     本書は勤労者山岳連盟の会長だった吉尾弘氏の遺稿集である。遺稿集としては異例な400ページを超える大著である。
     著者は2000年3月、谷川岳一ノ倉沢滝沢リッジを登攀中、滑落死した。享年62才。著者は1957年3月、19才の時、それまで不可能とされていた谷川岳一ノ倉沢本谷積雪期初登攀してさっそうとクライミング界にデビューした。その快挙について序文を寄せた古川純一氏は「これは偉大な業績なのである。なぜならば、この初登は死の報酬あるのみで成功例のない積雪期の一ノ倉沢内院の、20年間におよぶ登攀史上の空白を破るものだったからである」と述べている。

     以降、著者は穂高岳や剣岳に数々の積雪期初登攀を成しとげ、戦後日本クライミング界のリーダーとなった。その無類のエネルギーは枯渇せず、1978年ヒマラヤ・バビール峰(7102)に隊長として遠征、全員登頂の快挙をとげ、1981年には労山隊を率いてチョー・オユー(8153)に肉薄したスーパースターである。60才を越えてもなおも岩に取り付き、40年以上にわたってクライミングを続けてきた。本書のタイトルを「垂直の星」とネーミングしたのは、まことふさわしい。
     また日本勤労者山岳連盟の登山運動にくわわり、若くして理事長や会長をつとめた。クライマーとしてトップであっただけではなく、組織者としてもたぐいまれなるリーダーシップを発揮した。

     著者はなぜにかくも長きにわたって岩に取り付き続けてきたのか、本格的な岩登りをしない者にとっても興味が尽きない。著者は「谷川岳一ノ倉沢本谷」の登攀記でザイルを組んだ原田氏に次のようにいっている。
     「滝沢は今なら登れる。雪の状態がとてもいいんだ。おそらく今を除いては、上部のブロックの崩壊があるため今年は登れなくなると思う。どうだろう原田さん、クライマーとしてこれからも岩をやるのなら、のるかそるか積雪期初登攀というやつをやってみないか」。渋る原田氏に対して「俺は岩登りをやる以上、死という問題は考えないことにしている。なぜならば、岩登りという行為そのものが死の付随したものだからだ。死の恐怖に耐えられなくなったときは、俺が登山をやめるときだ。俺たちは現在アルピニズムを信奉している。アルピニズムに徹する以上、たとえば99パーセント不可能だったにしても、残りの1パーセントに可能性が存在するのならば、アタックをしてみるべきだ。無謀であるとも、冒険であるともいえる。しかし、それがアルピニズムの本質ではないだろうか」とまで言い切っている。
     そして原田氏とアタックが決まってから、著者は「登攀が失敗することも仮定して、勤めたばかりの工場での件も、友人たちとの貸借の件も、好きな女性への手紙も書いてきた。その手紙はもし私が死んだとしたら、立派な遺書がわりとなる。生きて帰ったとしたら、気はずかしい文章だが、いつかはこんな気持ちを伝えたいと思っていたことだ。今回がまたとないチャンスだった。だからもう思い残すことはない。ただ試みてみようというだけだ」とまでいうのである。

     そうしてまで岩登りが惹き付けたやまないものは何だろうか。著者は繰り返しその魅力について筋肉の快感や精神の緊張感をあげている。「前穂高東壁Dフェイス」の登攀記でその緊張感をリアルに読むことができる(文中の「篠原君」とはザイルを組んだ相手を指す)。「『よおし、やってみるぞ、篠原君。もしもの時は頼むぞ』『大丈夫だ』 私は篠原君の返事を待つまでもなく、行動を再開した。ハーケンを手から離し、思い切って、凹角の中に身体を投げ込む。なむさん‥‥。墜落と成功の合間の浮き上がるような感じの数秒が、ゾクリとした感じで背中を突き抜けてゆく。そして、落ちるかもしれないと感じたとき頭上の岩角に手が届いた。岩壁はこの位置から垂直を超えて覆い被さり、それにつれて凹角も核心地へ向かった‥‥」。

     クライミングの世界はやったことがない者には想像を超える世界である。しかし本書を読むとその世界の一端をのぞき込むことができたように思える。
    2008年02月12日 by ワンダーフォーゲル | 山の本の紹介 | コメントを書く | No Trackbacks |

    「弁護士の散歩道 山と花 ちょっと寄り道」(福山孔市良著、清風堂書店、2008年2月)

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     この本は知り合いの弁護士から先日謹呈されたばかりである。知り合いといっても、昨年、仕事のうえでこの弁護士の所属する事務所の新築移転のお披露目に出席した際、かねてからこの老弁護士が山好きと耳にしていたので、その席で山の話を交わしただけのことだ。その後手元に残っていた小生の山行パンフ「2006年山行から」と、昨年末に「2007年山行から」「大峯奥駈道縦走記」を贈ったので、そのお礼にと謹呈されたものだ。もちろん市販されている。山が取り持つ縁で交流が広がることは嬉しいことである。

     第1章は「ヨーロッパ 山と花紀行」で全体の半分の紙幅をさいている。第2章は「中国 山と花 やきものの旅」。書名に「山と花」と記すほどに全編に語られている山の花のうんちくは並のものではない。訪れたヨーロッパと中国、日本の山にどんな山の花が愛でられるかよくわかる。花音痴の僕にはほとんど知らない名前ばかりが出てくるが、山の花好きの人には山の花のよいガイドブックになるだろう。

     歩いた山はスイス、イタリア、フランス、オーストリアにまたがるアルプスはもちろんのこと、ピレネー山脈やイタリアのヴェスヴィオ山、シチリア島の山、イギリスやアイルランドの山まで足を延ばしている。その中には「武器よさらば」(ヘミングウェイ)の舞台や「ゲルニカ」(ピカソ)が描かれた土地、1991年に発見された「五〇〇〇万年前の男」のチロル地方の氷河、あるいはスペインのチェロ奏者のバブロ・カザルスが亡命生活を送っていた村が出てきたりで、ヨーロッパの山に疎い者でも小説や絵画などを通じて身近にさせてくれる。
     中国は四姑娘山。最近よく耳にする山だが高峰で僕には縁がない山だと思っていた。しかし四姑娘山というのは四峰の総称であって、もっとも低い5025メートルの大姑娘山はわりと登りやすいという。というので山行ツアー会社のパンフレットをめくっていたらこの山の登山ツアーの企画が見つかった。チベット高原の東に位置する横断山脈の山とあって興味がつきない。いずれ挑戦したいものだ。
     異色は中国と北朝鮮国境の長白山。中国側から簡単に入山できるという。この辺境の山に日本から年間1000人ほどがやってくるとのこと。一番多いのは元日本軍人の子供らで、生まれた家を探しにくるのだそうだ。国交のない北朝鮮とは自由に行き来できないが、かつて植民地にしていただけにこの地にゆかりの日本人は多いのだ。
     著者はこれまでに3冊の「弁護士の散歩道」シリーズを出版しており、世界の山に花を求めてくまなく歩いている。僕は六十路になっても海外に出たことはないが、海外の山には関心がある。いい刺激になった。

     第3章の日本編は「ちょっと寄り道」。著者は山と花の趣味以外に焼き物と異色な長唄と三味線がある。焼き物も長唄、三味線も門外漢の僕にはわかりづらいが、「鈴木牧之『北越雪譜』の世界を歩く」、「礼文島花紀行」は興味が注がれる。とくに鈴木牧之の生地の塩沢町や秋山郷紀行は十分時間を取って歩いており、雪深く厳しかった暮らしや風俗がよくわかる。

     著者はこの1月70才になった。膝の調子がよくないとのことだが、今年5月には、ピレネー山脈を越えて、パンプローナからサンチャゴ・デ・コンポステーラまで、もう一度巡礼の旅に出かける予定という。途中アルタミラの洞窟に近い国立公園のピコス・デ・エウロバ山(2648メートル)の登山を計画しているとのこと。計画の成就を期してやまない。

    2008年02月04日 by ワンダーフォーゲル | 山の本の紹介 | コメントを書く | No Trackbacks |

    「チベット旅行記」(河口慧海著・北沢和俊編、白水社、1978年6月)

     
     この本は登山の本ではない。しかし登山に不可分のアドベンチャー心を十分くすぐる。

     著者の河口慧海は1866年(慶応2年)堺生まれの僧である。住職をつとめていたその寺は今も残っているそうで、近場なのでいずれ訪ねてみたいと思っている。
     河口慧海は一切蔵経を勉強しているうちに、仏教の奥義を究めるにはチベットで勉強する以外にないと思い立った。当時、唐・天竺といえば想像を絶する遠隔の地と思われていたから、明治30年(1897年)慧海が日本を発つとき、世の人からは「彼は死にに行くのだ、馬鹿だ‥‥」といわれた。しかも当時チベットは鎖国中だった。だから間道を潜入せざるを得ない。インドのダージリンでチベット語を身につけてから、シナ僧に変装してヒマラヤを越えた。ヒマラヤの大山脈はネパールとチベットの境に延びている。その夏、慧海はその山脈を越えた。雪の道を登るにつれ、空気は希薄になり、時々昏倒しかけたこともあったが、勇気をふるって、ただ磁石を頼りに北へ北へと進み、ついにチベットに入った。この本はその旅行記だ。

     この本は、1904年「西蔵旅行記」として出版されたものを冗長な部分を整理し現代文風に改稿したものである。解説は深田久弥。現在入手できるものとしては講談社学術文庫(全5巻)がある。

     僕は小学校の国語の教科書でこの旅行記の一節を読んだ。冷たい雪解けの川を渡渉するヒマラヤ越えのくだりを今でも鮮明に覚えている。それがどの部分だったか探してみた。

     「やはり裸体になって、渡っていかねばならない。ほとんど臍ぐらいの深さのところばかり渡ったが、もちろん案内者に引っ張ってもらって渡って行くのである。川幅が350くらいで、その氷の中には、朝、氷の張ったのが融けて、上流から流れ来た小さな氷塊があるから、その氷が足や腰の辺りにあたると怪我をする。水の冷たいことは、言うまでもない。そんなふうで、上がり終わったところで、その冷たい感じのために、しばらくは歩くことが困難である。さいわいほかの人は馬に荷をつけたり、荷の上げ下ろしをしているので、そのあいだ、私はしばらく休憩して、日に暖まりながら自分の身体を摩擦している‥‥」。

     もう50年も前の小学校の教科書に載っていた一節を覚えていることに、当時の僕が冒険や登山に関心を持っていたことを思い出す。
    2008年02月03日 by ワンダーフォーゲル | 山の本の紹介 | コメントを書く | No Trackbacks |
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