アーカイブをご覧いただけます。January 2008
林業従事者の人手不足によって森林の荒廃が進み、更に圧し掛かる悪環境に
獣害がある。林業に限らず農山村をめぐる獣害は深刻である。栃木県では
イノシシや
鹿の被害が人々を悩ませている。
森林の荒廃で人家周辺の里山林にも
藪が増えたためイノシシが潜伏しやすい環境が出来てしまったという。
山村では電気柵を回らせたり、トタン板や鉄柵で囲ったりした田畑が目立つ。侵入者から農作物を守る様々な仕掛けである。
イノシシは警戒心が強く、普通ならば人家に近づく事は無いという。しかし
ここに住んでくれと言わんばかりの里山林の荒廃、藪の増加が起因してその生息数は5倍にも増えているという。藪の広がりがイノシシの生息圏を広げているのだ。
更に、手入れの行き届いた山林にも獣害が襲う。
ツキノワグマだ。
クマは伐採時期の迫った杉やヒノキを狙い樹皮を剥ぐ。枝打ちされた太い幹や間伐された森林では樹皮が剥きやすいために格好の標的にされる。苦労して
手入れをして来た山林ほどクマの被害が大きいという皮肉な結果となる。これでは手入れをする気力も無くなると関係者は嘆く。
クマの被害は02年まで100ha未満だったものが04年には206ha、05年には141ha、06年は171haと増加傾向にある。
持ち出し覚悟で山林を守る所有者と人手不足から山林を放置する山林所有者が混在する中で、県民税の使い道はどうなって行くのだろう・・・
養殖事業の発達と釣り事情について考えてみたい。
漁協の増殖義務に伴って放流事業というものがある。人工養殖した魚を川に放流したりすることである。これだけで増殖義務を果たしたかの様な昨今の漁協の姿勢には苦笑を誘われるが、今回はそれが主題ではない。
私の趣味は岩魚釣りであるから淡水魚、主にトラウト関係の話になるが、近年魚類の養殖事業には目まぐるしい進歩がある。
明治時代にはニジマス、昭和に入り30年代中盤にはヤマメの養殖も始まった。今では幻と言われたイトウまでもが養殖に成功している。
養殖事業そのものは資源確保の目的や食料、釣りなどのレクリエーションの対象であったりと人間社会に貢献している割合は大きい。自ら好んで労苦の末に手にする岩魚たちも、今はスーパーの鮮魚売り場で簡単に手に入る時代である。岩魚など珍しい魚ではなくなってしまったのである。
さて本題に入るが、釣り人が養殖事業といちばん関わりを持つのが
放流魚である。漁協が放流する魚をせっせと釣るという図である。これに伴って色々な現象が起きていることを少し考えたい。
今、日本の川や湖沼にいる魚にはどんなだろうか。
まず一つは、代々そこで生まれ育ったネイティブと呼ばれる
天然魚。二つ目は、放流事業で放された
放流魚。そしてもう一つ、これが大事なところなのだが、放流魚が自然交配して生まれた
第二世代の移植魚がいるのである。
実際は河川や湖沼で自然繁殖しているので放流魚と言うのは間違いなのだろうが、親が他所から連れて来られた移植魚であるので第二世代移植魚としておきたい。また、これには天然魚との交配で繁殖するものも含まれている。
以上3種類の魚がいるとして話を進めてみたい。
トラウト関係の放流事業は本来ならば増殖が大きな目的である筈だが現在は各地の漁協が行っている通りレクリエーション目的の放流である。平たく言えば釣り人に釣らせるための放流である。
現在、ファミリーフィッシングの主役であるニジマス。この魚は明治期から平成まで積み重ねてきた養殖技術の発達で人間が様々な操作を出来るようになった。手軽な放流魚として漁協のイベントなどでも活躍している。
ニジマスの成魚放流に於いては回収率100%というデータがあると聞いている。回収率100%と言うことは放流した魚が全部釣り切られる状態(川に残存しない)を言う。
一般河川に防護網を張りニジマスを放流する釣り大会の手法がある。ある程度の時間で大会は幕を閉じ網が引き上げられる。残存のニジマスが居たとしても生存の確率は低いと言う。
放流された当初のニジマスは流れの緩い場所に集まる。湖などで放されると浅瀬の明るい場所に群れていたりする。それは養殖された環境がそうさせている。狭いところで多くの固体を養殖するためヒレが擦り切れて自然界の河川の流れに対応出来ないでいる。
浅く明るい生簀で育つため湖などでも深場の暗い環境に入れずにいる。人間に餌を与えられて来たために自力で餌を採取する能力に欠ける。本来なら彼らの餌となるべきはずの周辺の生き物たちの方が運動能力が上なのである。
こうしたところに鉤の付いた餌が流れてくればたちどころに釣られてしまうのである。こうした観念と常識からニジマスの放流は何の恐れも無く全国で行われているのである。
さて、こうした放流魚の行く末は本当に釣り人の魚籠の中なのだろうか?
現在ヤマメの天然魚を探すことは至難の業だという。「どうして?川にはヤマメが沢山いるじゃないか!」そう思われるであろう。
実はそのヤマメは第二世代の移植魚なのである。放流されたヤマメが釣り切られず天然化して子孫を残しているのだ。
放流された魚が卵を産み子孫を残す。これは立派な増殖事業である。ところが一歩踏み込むと単純に喜べない事情が出て来るのである。
人間誰しも自然を愛する心を持ち合わせているから、川に魚がいる事を素直に喜ぶ。出来うる事なら100%天然魚が一番であると思うのは魚の生態を知る一部の釣り人くらい。
放流事業を増殖本来の目的から考えたら親魚を捕まえ卵を確保して同じ水域に戻す事が望ましい。しかしこれには親魚の天然魚真偽鑑定から入らなければならないだろう。それほどに移植の歴史は古い。
こうしてみるとこの“第二世代移植魚”という存在が結構重要な位置を占めていることに気が付く。
第二世代と書いてはいるがこれは言葉のアヤで、放流魚であれ一度放たれた魚は種の存続のために繁殖活動に努力する本能を持っているから生き残っていれば産卵活動に参加して子孫を残して行く。それは何代も続いて行く事となるのだ。
放流魚とは言え自然の川で何代も交配を重ねて来たとすれば天然魚と何ら代わりの無いものとなりえる。ただ一つ違うことと言えば元々そこに居なかった血統の魚であると言うことだ。
日本各地の放流事業でこうしたことを繰り返して来た結果が「ヤマメの天然魚を見るのは至難の業」と言われる由縁でもある。
現在では多くの人々が環境問題に関心を持つようになった。生態系という言葉も随所で聞かれるようにもなった。しかしその少し前の時代には乱暴な放流事業が行われていたと聞く。ヤマメ域にアマゴを放流したりヤマトイワナが生息する渓にニッコウイワナやアメマス系の岩魚を放流したりと固有種を完全に無視した放流がされたと聞く。問題はこうした乱暴極まりない果ての放流魚にも第二世代が生まれるという事実である。
ニッコウイワナの原種が生息していると言われている栃木県大芦川では原種の保存繁殖を目的に上流部が数年間禁漁となった。親魚から採卵し発眼卵放流も計画されているが、親魚のDNA鑑定から始まるので簡単には進まないそうである。(現在、過去に移植放流があった可能性があり発眼卵放流は見合わされている。)
詳しい事はまたの機会にしておくが環境問題から異常な魚が生まれる場合もある。日本の川は海と往来出来た時代は遠く去り現在はダムや堰堤で細切れ状態である。
川で産卵するトラウト族は本来なら海に下る習性がある。海に下ると言うことは川を下流に向かって泳いで行くことを指す。それとは別に大雨や洪水で流される場合もあるだろう。川を下る場合、ダムや堰堤は何の支障も無く越え下る。ところがいざ産卵のために上流に遡ろうと思った時にはこのダムや堰堤が大きな障害として立ちはだかるのである。下ったはいいが二度と上流には帰れないのだ。
ダムや堰堤で遡上を止められた渓魚はそこに貯まる。上流部と下流部に本来は棲み分けがされていた筈のイワナとヤマメが、同じ水域の堰堤下に貯まり産卵することになる。当然の結果としてイワナとヤマメの交配が起こり化け物が生まれる。「川サバ」と呼ばれる混血の渓魚である。そしてこうした雑種には繁殖能力が無いとされている。本当にそうなのか?人間は自然を甘く見ているのでは・・・
話題を放流に戻して今回は終わりにする。
放流とは人の手を借りたものである。前筆したように一度水に放された魚はそこが何処であろうと自分の子孫を残そうとする。現在問題になっているブラックバスなどの外来種が日本で繁殖しているのもこうした本能の行動があるからである。
魚とは水が合い餌があれば生きて行ける。生きて行ければ子孫を残す行動は自然であり本能である。環境にも対応して行こうとする。
イワナやヤマメの第二世代と同じように聞こえるかも知れないが、外来種の繁殖はその前の段階で次元の違う問題である。これはブラックバスに限らず我々トラウト系の釣りではニジマスやブラウントラウトなども問題視すべきであると考える。
魚には足が無い。
いくら隣同士の川であろうと魚は移動出来ない。魚に陸を歩かせているのは人間である。漁協の放流、善意を誤解した釣り人の自主放流、ペットの飼育放棄。
人の手が加わる事で保てる自然もあれば、二度と元に戻せない自然もある。命在るものを甘く見てはいけない。
モノを書くことを少し話してみたいと思う。
私が以前、コラムと言うかエッセーを書いていたのは栃木県の地方紙下野新聞金曜日のレジャー・釣り面。
栃木県での下野新聞の地位は中央紙と購読部数を二分していて読者は多い方だ。
数ある一般紙の中では比較にならないほど釣り欄への比重が大きかったのも特徴で、栃木県内にある湖沼・河川の釣り情報の他に投稿写真・エッセーなどからなる。「金曜日だけ下野新聞を買う。」というファンもいるくらいに釣りに力を入れた紙面作りをしていた。
新聞に載せる釣り情報は当然活きたモノでなければならずメンバーは実際の釣行釣果を参考に釣り場情報を掲載するわけなのだが、私のように釣りが下手な人間は全く何の力にもならない。
それでなくても源流部の岩魚釣りなどは紙面に紹介出来る類の釣りではないので次第に私が寄せる情報は釣りそのものより林道情報や雪代具合などの水況情報が多くなっていく。
それに加えて近年私の釣行先はシーズンのほとんどが他県への遠征となっている。栃木の釣り場情報を掲載すべき紙面に他県の情報は一切書けないのである。
そんな理由から釣り情報を考えなくてすむエッセーに力が入ってしまう結果となっていく。
この釣り面のエッセーは釣りに関わる物であれば題材に制限は無く「魚心」と題された中で450字に纏(まと)め上げるというものである。採用された当初の私のエッセーを読み返すと何のポリシーも無く、赤面する代物ばかりである。
釣り人のマナーやインターネットのことなどを脈絡も無くダラダラ書き綴っていく。訳知り顔で書く内容には説得力も無く、ただただ力み過ぎた独り善がりの文章が目立つ。まあそれは今でも大差はない。
メンバーから送られる原稿は渓流のヤマメ釣りや鮎、雑魚釣り、ルアー・フライとさまざまな内容で、それを順次掲載していくのであるが、やはり釣り好きのメンバーが書くエッセー内容は釣り方や釣り状況、果ては釣り自慢に多く偏ることになる。
私はそこに目を付けて一風変わった題材をエッセーにする事にした。
前記した通り私の釣りは情報に成り難い山釣りと言われる部門ではある。しかしその反面、エッセーの題材には事欠かない釣りでもある。釣り場までの行程しかり、川を歩くことしかり、テン場での一夜しかり。
釣りに行った時の見聞ではあるが、出来上がった内容はおよそ釣りとは程遠いものである。時には「釣り」という文字すらも出て来ない時もある。
友人をして「○○さんの作文は釣りと全く関係無い事ばかり書いてありますけど、あれで大丈夫なのですか?」と冷やかし混じりに心配されたりしていた。
それでも時には私の文章を読んで「釣りをしてみたくなりました。」と言われる事もあり、そのような時は結構嬉しかったりしたものである。
私が今でも文章を書く上で一番気にしているのは情景描写と心理描写。
気にしていた割にはそう上手くも無かったけれど、それでも釣りの場合は、今そこで竿を持っている様に、野営であれば焚き火の前に座りオレンジの炎を見つめて煙に目をしばたいている様に、読み手に感じてもらうことを心掛けて書いていた。
釣り下手なので釣りを教えることは出来ないが釣りの楽しさなら十分教えられる私である。
渓で遊び渓に泊まる楽しさならば経験を語ることが出来た。他のメンバーが釣りに自信を持ち、その技法や釣り場を情報として提供するならば私は渓を遊ぶことの楽しさを情報として提供すればいいのである。吹く風の匂い、ざわめく木々、陽射しをキラキラ映して流れるせせらぎ、飛び出す岩魚、にこやかな友の顔。
そんな楽しかった連載も終わり、これからはこのブログで渓の遊びを書き続けて行きたいと思う。
先週の土曜日に「ふるさと教室」が開かれました。今回のお話は
「節分」でした。
では、教えてもらった事をお裾分け・・・
節分と言えば豆まき。
本来、節分は季節を分けると言う意味で、
立春・立夏・立冬、の前日を言ったそうです。
旧暦では立春を新しい年の始まりと考えていましたからいわば2月の節分は大晦日にあたりました。そのため、今でも節分の事を年取り・年越しと言う地方もあるといいます。
旧暦の考え方や、これから暖かい季節に向かうということなどから春の節分だけ今も残っているとされています。
さて、最近節分の時期に聞くようになった
恵方巻き。これは関西から広がった風習と言われています。
節分の夜に恵方に向かって太巻き寿司を丸かじりすると良い事があるというものです。
恵方とはその年の良いとされている方位のこと。年神がいるということで一年中大吉とされている方位です。昔の人は方位をとても気に掛けて暮らしていました。
ふるさと教室では今回、子供達に節分と恵方巻きの由来を説明し、自分達で恵方巻きを巻いて食べるという行事を行いました。
普段何気なくやっている祭事も、ひとつ踏み込んでみることで子供達もとても身近に感じられた様子でした。
渓泊まりの料理にはその時々、季節の食材は欠かせない。山菜やキノコを食材としたものが多い。
そんな中でも天ぷらやフライといった揚げ物は結構重宝する料理である。
しかしながら、最小限の油の量で調理をし、他の料理にも使用してと努力はするものの、どうしても廃油が残ってしまう。
そこでこれ「廃油ランタン」
空き缶を逆さに置き、底のくぼみに廃油を注ぐ。新聞紙で5cmほどの紙縒りを作って廃油を馴染ませ芯にする。
廃油が染み込んだ先端に火を点ければ即席「廃油ランタン」の出来上がり。
闇の中に灯るランタンを囲んで友たちと渓語りの一夜。
釣り屋も結構ロマンチストなのであります。

<栃木百名山ガイドブック>より
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ぺんぎん登山隊の標的は県内及び近隣の低山である。
低山の定義がどの辺にあるのかは知らない。日本で一番高い富士山が3776m。(昔と変ってないよね?)
この富士山を最高峰としたならば(したならばってあ〜た、実際にそうなんでしょうよ!・・・自爆)どこいら辺りの標高が低山と言われるのだろうか?
な〜んて難しく考えなくてもぺんぎん隊が登る1000m前後の山は紛れも無く低山なのであるから心配はいらない。
栃木県も1000mを越える山は県境方面に連なり、県央付近の山々は300〜700m程度である。大体が登山口の近くまで自動車が入れて自宅から1時間以内で登山靴に履き替えられる範囲にある。
ぺんぎん隊は「山頂ラーメン」を常とする隊則があるので、前夜の「山頂アタック会議」で決められる登頂時刻は12:00前後、そこから逆算して出発時刻は8:00〜9:00と概ね毎回設定される。すなわち本部で朝食を摂っての出撃となる。
もちろん、夕食も本部に凱旋してからということになる。
雨蓋には氷砂糖とカロリーメイトがいつでも入っていて期限が来るまで買い換えない。
途中のコンビニで購入するのは飲料水(スポーツドリンク)各自1本のみ、総額300円成り。
ぺんぎん隊にとって低山とは「低料金の山」の事を指すのである。(笑)
実際、みなさんは登山1回にどれくらいの出費をされているのでしょうか?
釣り屋が川をめぐる環境に興味を持つのと一緒で、登山者が森林について興味を持つのも普通のことだと思う。手付かずの自然もあれば、人の手を介して健全に守られる自然もある。街人の机上論よりは川へ行く釣り屋、山へ足を運ぶ登山者の目の方が確かである。
下野新聞に栃木県の森林荒廃の特集記事が掲載され始めて4回が経った。
3回目以降、話題とされていたのは林業従事者の高齢化問題。
若手就職者が極端に少ない林業。それに携わる職人たちは当然のように高齢化を迎えている。これは何も林業だけに限らず、一頃「3K」と呼ばれた職業共通の悩みでもある。
現在、栃木県内の林業作業員は1000人を切り600人台とのこと。その三割が65歳以上の高齢者だという。
栃木県の森林面積は県土の55%を占め3,519K。その内の2,228Kが民有林である。(平成13年調査)
現在の人員で対応出来る森林整備面積は年間6,000ha(60K)だという。税導入に伴って200人増員し8,000haを目標にするということだ。
先日登って来た熊鷹山も林道から登山道の半ばくらいまでが植林されたスギとヒノキの林だった。間伐はされているものの、切られた木はそのまま斜面に転がっていて搬出する気配は無い。
人手不足と搬出してもその費用と利用先の折り合いがつかない結果なのかも知れない。
森林環境税の導入に伴い林業の雇用拡大に期待を寄せる意見もある中、税導入が10年間と期限を切られている部分で不安を隠せない。果たして10年後の林業が現在と変っているのかどうか・・・
栃木県は林業への就職促進の一環として一般者募集の講習会を開いたりしているのを紙面で見たことがあるが、森林組合の友人に聞いたところ本業として林業を選ぶ人はごく稀なのだそうだ。下草刈りなどでボランティアは集まるが、本業とまで踏み込む人はいない。近年注目され始めてきた環境問題などから興味半分の参加者も見られると言う。
ともあれ体験をするということもこれらの問題を考えるには必要な行動。しかし森林環境に関心を持つ事も大切であるけれど、今後実際に職業として成り立つ様な林業というものにも県民は関心を持ち、理解と協力が必要になって行くのではと考えさせられる。
♪一日二杯の酒を飲み
♪肴は特にこだわらず
♪マイクが来たなら微笑んで
♪十八番ひとつ唄うだけ
これ河島英五の「時代おくれ」という歌なんですが、こんな感じを夢見ながら二杯が三杯、三杯が四杯となり、マイクが来たなら放さないオヤジとなっているのが現実の私であります。
しかしまあ、確実に時代遅れなのは自覚し間違いの無いところでありまして、テレビを見ても違和感無く楽しめるのはニュース番組くらいで後は見ても出ている人の名前すらも判らない。(ああ、「笑点」なら出演者も知ってますが・・・何か?)
洋服だってパンツはズボンで下着じゃないと言うし、ランニングシャツはタンクトップ、ジャンパーなんて死語でブルゾンとか言い出して久しいらしい。(私は今でも普通に使ってますが・・・何か?)
そんな旧式の私が昨日、家庭内で思い切り痛い目に遭った。
犯人はこいつ
洗面化粧台に在った新しそうなこれを私はよ〜く見もせずに勝手に電気ヒゲ剃り器と思い込んで顎に思い切り当てた。
次の瞬間に飛び上がるほど痛い思いをした。
私の声に驚いて娘がやって来た。やって来るなり私の顔を見て大笑いしている。
「お父さん、これでヒゲ剃ったの?これ私の脱毛器だよ!」
「なにゅ〜ん!」
ヒゲを剃らずに抜いたのでは飛び上がるほど痛いのは当たり前である。抜いた跡には粒粒の血が・・・
「こんなのあるの?」
そう聞き返す私の耳に
「知らないの?古いねェ〜!」
と言いながら去って行く娘のバカ笑いする声が響く。
考えてみれば私に新しい電気ヒゲ剃り器を買ってくれるような家族ではなかった・・・
さて、登山競技を調べてみました。
1チーム4人で100点満点で競うらしいですね。
「何を?」って登山です。(笑)
競技内容というか採点配分なんですが
○天気図審査 10
○計画書 4
○設営 5
○知識 5
○炊事 3
○読図 10
○体力 40
○歩行 10
○装備 7
○救急 3
○記録 3
こんな感じらしいです。
配点が高いのを見ると当然ながら直接的な面が多い様です。「体力」なんて登山そのものですし、天気図・読図なんかも登山には直接的に影響しますからね。
種目には「クライミング競技」と「縦走競技」があるそうで
その両方の合計で競うみたいです。
こうしてみると(イワナ)釣りの場合は100点満点配分は・・・
○竿 1
○仕掛け 1
○服装 1
○到達力 40
○ポイント見極め 30
○流し 1
○アワセ 1
○取り込み 2
○魚の扱い 2
○捌き方 10
○料理法 10
○知識 1
くらいでしょうか?(爆)
ほとんど釣りというより料理に配点せれてます。これくらい釣りとしての技術は簡単なんですね。
何にしても競う事は競技スポーツなんです。
競わなければ趣味としての愛好者で楽しんでいられますがそれを競技として突き詰めて考えて行くと大変です。
こうして見ると対象物そのものを突き詰めて考えて行く
のが「○○家」と言われる人たちなのかな。
趣味として楽しんでいる人とは別の世界です。
登山も趣味として頂上を極めて展望を楽しむのはハイカーや登山者であって登山家じゃないのでしょうね。
だから私も釣り屋なんですが・・・
お馴染みのテレビCMのスポーツがウォールクライミングになった。
クライミング競技で宇都宮の高校生が1,2位になった事がある。1位の子は世界レベルで凄いらしい。
ところでその時に国体や高校総体に登山競技というのがあるのを初めて知った。それが調べてみたらそのまんま「登山の技を競争」するのである。
登山を競争するとしたらやはり時間(タイム)なのだろうか?と思いまたまた調べてみた。
タイムもそうだが技を競うというのだから登山技術も争うのだ。
ちなみにクライミングは決められた時間での到達点の高さを競うらしいことが新聞に書いてあった。
こうなるとやはり登山も立派なスポーツである。
ここで「スポーツ」と言う言葉について考えた。
最近何にでもスポーツが付いている。私に身近な物では「釣り」がある。「スポーツフィッシング」と言うのがそれだ。
「スポーツフィッシング」とは「釣り競技」の事だ。例えば
バス釣りトーナメントみたいなもの。
「釣りはスポーツじゃないだろう!」と言うご意見もある。
それは「スポーツ=運動」と考えるからである。
「スポーツ=競技」と考えれば「釣り」も立派なスポーツだ。
競う相手があるものが「競技」なのだけれど、登山で競争する必要は無いと思うがそこは技術向上が目的の競争だと思えば良いか・・・
登山競技に絡んでもう一つ。
「○○家」と言う言い方がある。
どこかの家を指しているのではなく書道家、陶芸家とかの「家」の事だ。
そこで「登山家」と言うのがある。生憎「釣り家」という葉
は無い様だ。この「家」と言うのは何を指しているのだろう・・・?
身体は忙しいが頭が暇なのが私の仕事。
こんな事をふと思いながら器具付け工事をしていた次第である。身体が暇になったら調べてみようか・・・
話は変るが、ぺんぎん隊も栃木の山を結構登った。
「栃木100名山」なんて本が下野新聞から出ているけれど他人が決めた100の名山には全く興味は無い。
なんて偉そうに書いてはいるけどガイド本としてはちゃんと購入して参考にしているのでした。理由は単純、1800円で100座出ている。一座18円なら安い買い物。(笑)
俗に言う「名山」に興味が無いだけで、登った山が100名山に入っている分には構わない。あくまで自分たち主体である。
その証拠にこの本の登山道の表記はあまり信用していない。日記のどれかに書いてあるが廃道に近い登山道を標準の道として記載していたからだ。しかも初心者向けである。
この点を出版元の下野新聞社に注意してあげたが返答は無い。遭難者でも出なければ良いのだが・・・
私たちの渓歩きでもそうなのだが、本やHPの記述を充てにして山に入る人がいる。
実際に歩いた道を忠実に書かなければ事故に繋がる場合もある。私の場合、渓流に付いてはほとんどアクセス路は書かない。道が有るようで無いに等しい場所が多いからである。
逆に登山記の場合は極力書くことにしている。登山道として一般に公開されている道に付いては一般向けとして老若男女全てに通じると解釈しているからだ。
利用者にとって最新の情報が必要だと考えるし、息子を伴っての登山であるから初心者向けコースとして参考にして貰えると考えている。
まあ、自分なりの区別はしているつもりだが、本当なら私のHPなんかは参考にしないのが正解である。(自爆)
「お父さん、あれ面白いかな?」これは隊長の言葉。
私と隊長が一緒に山に登り始めてからもう4〜5年経つ。その間、隊長は私の行動パターンを観察して来た訳である。
山や渓に行く時に私が何をおいても必ず持参する物(酒じゃ無いのよ!)を隊長は知っている。そう、カメラ。
登山道を歩きながらあちらこちらに視線を飛ばして自然の中の面白い被写体を探している私を隊長はず〜っと見て来ているのだ。
ぺんぎん隊は登山隊にもなれば探検隊にもなる都合の良いチームなのである。登山道を歩いている最中も探検隊の精神は忘れないのだ!
今回の登山は行程の半分が渓流沿いを歩く登山道。釣り屋の私は当然のように沢を覗き込みながらの歩き。そんな中で隊長も私の探しているものを察した様子だ。
この時期の渓流は飛沫が凍ってとても綺麗。
氷の中には自然が作り出した面白い形が沢山ある。そのどれもが見ていて飽きない。
でも今日の目的は登山だから写真ばかりも撮っていられないので所々で拾い撮り。
私が氷の写真ばかりを狙っていると思ったら甘〜い!
ちゃんと春を拾いながら歩いているのだ。
いやいや、そう言えば聞こえはいいが要は食い物を探して歩いているだけ。
食い物に春を感じるのも釣り屋の性分か?
沢沿いの登山道にチョンボリ顔を出した山葵。
春はもうすぐ・・・いやいや・・・まだこれからが寒いのだ!
これがブログに掲載される頃には今年最初の登山の真っ最中。
元日未明に初日の出登山をしたけれど、片道30分のお手軽な登山だったからなぁ・・・
今年は行きたい山が目白押し
日光白根、太郎山、男体山、女峰山・・・会津駒も登りたい!
だけど今は全〜部が雪の中。
仕方ないので佐野の里山で許してやる。
佐野ラーメンも良いけれど、今回は出前一丁で許してやる。(サッポロ一番が無かった!)
でもでもへっちゃら、ぺんぎん隊は懐が深いのだ!
*という事で今日は山に行ってます。m(_ _)m <(_ _)>
仕事が暇で家にいた時に
「竹や〜サオ竹、竹や〜、サオ竹。物干しザオは如何ですか?ステンレス製物干しザオ、古い物と交換に伺いま〜す。ご近所お誘い合わせの上、遠慮無くお声を掛けて下さいませ。竹や〜サオ竹。」
と大音量のスピーカーの声がのんびりと近づいて来る。
う〜ん、五月蝿い!と感じると同時に今時そんな手段で物干し竿が売れるのであろうか?と他人事ながら心配してしまった。
大体、竹ザオと言いながらステンレス製とは何なのだ!物干しザオを買うのにご近所を誘うなど、誘われた方が迷惑ではないか!と意味無く一人部屋で文句を言っていた私。
そうしていると
「ご町内のみなさま、毎度おさがわせ致しております、廃品回収車が参りました。使わなくなったテレビ、CDラジカセ、洗濯機、冷蔵庫、自転車、バイクなど御座いましたらご相談致します。」
と別の車がやって来た。
「なんだなんだ、回収車のオヤジが一所懸命に考えたのだろうが最後が
『ご相談致します。』ではちょっとおかしいじゃないか!あんたに相談して何が解決するんだ?相談などいらないから持って行ってくれればよいのだ!それに
『おさがわせ』って何だよ?笑わせに来てんのか!それを言うなら
『おさわがせ』なんだよ!」
半分苦笑しながら聞いているうちにスピーカーの声はさらに続いてこう言う。
「この際に、ご家庭のリフォームなど如何でしょうか?台所、トイレ、浴室などのリフォームも承っております。」
何〜っ、お前は廃品回収業だろうがぁ!!と私はそのオヤジの声に完全に思考回路を占領されてしまい窓から外を覗いてしまうのである。
エンドレステープに録音されているのだろうが、その声が徐々に近づいて来る。
洗濯機と数台の自転車を積んでノロノロとやって来た軽トラックに目を向けると如何にも怪しげで出来るならば係わり合いになりたくない風情のオヤジが兄ーちゃんを乗せて運転している。
う〜ん、世の中色々と複雑なのは前々から感じてはいたのだが、一見怪しそうな方々が真面目に廃品回収をされていて、しかも各家庭の水周りの心配までして頂けるご時世になったのだな・・と思った私。
この業者にリフォームを頼む客はあるのだろうか・・・。
イソップ物語に「北風と太陽」というのがある。
あらすじを書くと
【北風と太陽】
北風と太陽が「どちらが強いか力比べをしよう!」ということになった。そこで旅人の上着を脱がせることができるかどうかの勝負をした。
初めに北風が力一杯吹いて旅人の上着を吹き飛ばそうとした。しかし寒さを嫌った旅人は上着をしっかり押さえてしまって上着を吹き飛ばすことが出来なかった。
次に太陽が燦燦と照りつけた。旅人はその暑さに耐え切れずに上着を脱いでしまった。
勝負は太陽の勝ちとなった。
・・・と、まあこんな具合の物語。イソップ物語には教訓が隠されているのだがそれはこのブログに書くまでも無いので違う話に進む。
この物語の表面を単純に見ただけの話ですが、人間には「体感温度」というものがあります。「暑い」「寒い」もこの「体感温度」が大きく関わっています。
20℃の気温と20℃の水 さて、どちらが温かく感じるでしょうか?
空気と水では熱の伝えやすさ、熱の移動の速さが異なります。すなわち、熱を伝えやすい水がそれよりも伝えにくい空気の方をより暖かく体感したということになります。「熱」というと解りにくいでしょうから「冷たさ」と置き換えてもいいですね。
空気や水の動きは大きければ大きいほど熱をより速く奪う(冷たさが早く伝わる)ので、その動きの大きさも重要です。例えば、温度計で測った空気温度は同じでも風が吹くと寒く感じるのは、この動き原因しています。
体温を上げる要因は日射と体内温度です。太陽が出れば暖かいし、寒い時に体が震えるのは体内で熱を作り出しているから。逆に体温を下げる要因に汗の蒸発があります。
風が吹くと実際の気温より寒く感じます。風速1mで−1℃と言われています。そして風は皮膚表面の汗を乾かします。
これで単純明快
寒い時は肌の露出を極力避けて服を着て日当たりのよい風の無い場所が一番。暑い時は日陰で肌を出しているのが一番。
イソップ物語の教訓とまで深くは無いですが、ウソは無いお話でした!
昨年暮れにドドドッと書いた「出逢いから始るもの」シリーズ。
実は渓父川上健次が空に登ったところまでを昨年の内に書いておきたかったからなのです。
『終章』にも書いた様に「もう辞めようか・・・」そう思った私の山渓遊びはあの時点で一区切りでした。
でも、そうはならなかったところがこれからの話で、実はこれからが『出逢いから始まること』の主題なのです。
年が明けた今は焦る必要も無いので所々でブログに織り込んで行きたいと思います。
では、まずは
『紙』崇拝者から・・・
前にも書いた通り川上さんの発案で始った「源流本」の制作が2005年に本格的に始動して翌年1月、待望の一冊が出来上がりました。
『新源流紀行』
この本は川上さんを中心として出逢った山岳渓流釣り愛好者たちの自費出版本です。
それこそ正に出逢いから生まれた本でした。
では、これが生まれるまでの
『紙』というものへのこだわりを書きます。
『紙』崇拝者
私はデジタル時代のご時世に『紙』に憧れた。
学生の頃から本は結構読んでいた。「○○君と友達になってうちの息子が本を読むようになったわ。」中学時代に友人の母親にそう褒められた程の読書少年である。
しかし、西洋文学から日本文学、歴史小説、更には推理小説やエッセー集、果ては漫画や週刊誌まで私のそれは節操の無いものだった。
それでも読書は国語に、社会科にと学生時代の私には大いに役立ったものである。だからと言って学業成績はけっして良くはなかったのだが・・・。
いつ頃からか居住空間に占める書籍に圧迫感を感じて図書館を利用する様になった。本を買わなくなったのである。
それと時期を同じくしてIT時代が訪れた。本を図書館から調達しての活字を追う生活は変わらなかったがITの到来と共に文章を書く『書き手』にも多少の色気を感じたりしていた。
小説を書こうなどという大それた話ではなく、現実の事、自分が思う事、感じる事を他人に読まれるのを前提として書いていくレベルである。パソコンを自室に配置することで一層その気持ちは高まった。「読むだけで無く何かを伝えたい。」そう思い始めた。それが簡単に出来るシステムがホームページの製作と運営であり
「渓の呼ぶ声」の誕生へと繋がって行った。
PCとWebの普及に伴い個々が情報を発信する機会が大幅に増えた。家庭に居ながらにして伝達したい事柄を文章で表現し発信していく楽しみが与えられた。画像を伴う事でビジュアル的にも効果を得て雑誌紙面感覚の作成も可能となったのである。
ホームページに文章を書く事自体が既に一人の『書き手』としての立場である。Webを利用して公表されるのが前提なのだから他人の目に止まるのは周知の事実である。
読まれる事、読ませる事の拘りがホームページの運営の基本である。そこに「見せる」が加われば正にデジタル雑誌と言える。書く以上は多くの人の目に触れて欲しいのが書き手の心理であり本音である。そうした気持ちを10年間持ち続けられたから今でも「渓の呼ぶ声」を続けていられるのだと思っている。
「渓の呼ぶ声」が始まってからの10年間の間、Webばかりが表面に出ていた私だが異常なくらいに『紙』への憧れがあった。
Webで文章を書いている傍らで『紙』の原稿を書き続けていた。デジタルの時代にあっても『紙』に活字を並べてみたい気持ちがあった。インターネット小説が流行る時代に自分の文章を『紙』に活字として踊らせる夢を持っていた。
文学青年の様に小説家やエッセイストになりたいと言う憧れでは無く単に『紙』への憧れである。
そんな私の『紙』遍歴はまず下野新聞紙面へのコラム執筆だった。
私たちに一番身近な『紙』媒体は「新聞」である。折り良く下野新聞社は毎週金曜日にレジャー・釣り欄で1面を占めるスペースを割いて釣り情報やコラムを掲載しており、その担当者を募集していた。募集は平成12年から始まったのだが一年目は応募期間を過ぎていたため参加出来なかった。
しかしその一年間の紙面を見ながら「俺にも出来る。」と思ったものだった。そして平成13年から参加し平成17年までの5年間、コラム担当の一員として文章を書けた事は貴重な経験であり私の財産となった。
コラムと言う分野で好き勝手な事を書いている様でありながら、公共性、大衆性の高い新聞紙面での活字掲載というのは大変重い責任を伴うものだった。
幸いにも担当編集記者の理解を得て自由奔放に書かせて頂いたけれども一字一句に注意を払って書いていたものである。良い時は無反応、間違った事を書こうものなら嵐のようなクレームが新聞社に押し寄せて来る。
文字数制限というものも正にそれらしくて好きだった。『書き手』意識を刺激するものである。限られたスペースに活字を印刷する紙面である。当然のこと、個々の記事に占有出来るスペースも決まっている。我々に与えられた文字数は500字。その中で自分の思いを如何に書き切れるか、場面の臨場感が出せるか、疑似体験させる事が出来るか、それが毎回の苦労であり楽しみでもあった。
そこが私の『紙』への憧れでもあるのだが、Webならば「あれ?これは以前書いていた事と全く逆な事を書いているぞ!これは拙い!!」と思えば消去も変更も自由自在、文章の表現が乏しければ画像をチョイと貼り付けて現物支給、こんな事が日常茶飯事な私にはデジタルほど都合の良い物は無い。だからこそ融通が利かない『紙』への憧れなのである。
新聞紙面にコラムを書く傍らで『本』にも色気があった。『本』と言っても本屋に並ぶ様な『本』などは幻の存在である。
乏しい頭に浮かぶそれはガリ版刷りの藁(わら)半紙の束、そうそう小学校の「学級文集」みたいなもの。そこで体裁だけが『本』の形をした「会報」を手掛けることにしたのである。
その頃に活動していた釣り倶楽部の物である。カラー4ページ全78ページで構成される「会報」である。
原稿を集め、写真を選択し、校正をかけて印刷する。もちろん原稿以外は製本から何から全部自分がやる。
今、手に取ると笑いを堪え切れないお粗末な「会報」である。そして残念ながらその「会報」には私の記事は無い。
「編集後記」にちょこっと文章を書かせて頂いたが至って控え目である。ページ数に制限があったわけでも原稿に期限があった訳でも無いが「本のような物」を作る事の方に喜びを感じていたのだ。
限定20部、超レア物。みんなまだ持っていてくれてるのだろうか・・・。
「会報」と言えば私が所属していた「渓道楽」にも会報がある。
この会はIT集団と言われるほどの会であるから運営しているホームページそのものが「会報」みたいなものである。およそ『紙』には縁の無い連中であるが毎年忘年会に間に合うように広報部が「会報」を仕上げて配布してくれている。
その気になれば記念誌の一冊も出来そうなくらいの材料は揃っているし、毎年新しい紀行文も執筆されているのだがそれを『紙』にする意欲がある奴が何人いるかは疑問だ。
「本」と言う体裁への憧れから「写真集」も作った。
限定2冊。我ながら良く出来た体裁と写真内容に自己満足に浸っているが如何にも『紙』オタク的喜び方である。
ここまで来ると『書き手』意識は何処へやら、完全に『本』の体裁への憧れでしか無い。「会報」も「写真集」も編集作業に憧れているみたいに見えなくも無いが実態は出来上がった物の方にこそ満足感を感じる。
そして平成18年1月28日。「新・源流紀行」が手元に届いた。自費出版とは言え本屋に並んでも何ら遜色の無い書籍としての立派な内容と体裁を持ち合わせている。
その154ページから161ページまでが私のシロ。
正に舞茸やナメコのシロにも劣らない私だけの活字のシロである。全27編ある掲載文の一つではあるが私の憧れが一つの形となったものである。
「活字として紙の書籍に自分の文章を載せる。」
それはホームページを開いた時からの夢。無味無臭のデジタル文字を書きながらも印刷インクの匂いに憧れた『書き手』としての憧れ。
この本の原稿を書き始めた当初は5000字という書き慣れない多くの文字数に戸惑った。それは300字詰め原稿用紙にして16枚強である。作文の原稿用紙の枚数を改行と句読点で稼いでいた学生時代の頃を思い出すと気絶しそうなくらいの膨大な数字である。
そんな中、「お前はこの文章で何を一番伝えたいのだ。」そう自問した。書くからには如何にも私が書いた文章でなければならない。行った先の険しさや厳しさ、釣った獲物の数や大きさでは現わし切れない「楽しさ」を書こうと答えを出した時から文字に意思が込められた。
そしていざ1文字を書き出すと次から次へと文字は並び増えて行った。全編に「楽しさ」を溢れさせ5000字丁度で書き上げた。
ホームページに文章を連ね、下野新聞で文字数制限を学び、会報で本と言う形に刺激された。
活字になり『紙』に印刷された自分の文章を見て「みんなもやればいいのに・・。」と思う反面、今の世の中、私の様に『紙』に憧れる人はあまり居ないのかな?と思ったりもした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
出逢いから始った一つの形が生まれた瞬間でした。
地元紙「下野新聞」では昨日の朝刊から特集を始めた。
題して
『森林荒廃 とちぎの現場から』
栃木県では今年4月から森林環境税が導入される。国税ではなく県民税で税額は一人当たり年間700円。法人は年額7%上乗せ課税で期間は10年間。
他の財源と明確に区別するために基金設置で適正に管理する体制だという。
栃木県ではこの県民税を
『とちぎの元気な森づくり県民税』と命名した。
近年、京都議定書の決議などから環境問題、特に地球温暖化対策が世間で取沙汰される機会が多くなった。そうした事から国民の関心も高まっているかのように見える。
しかし具体的な部分については関心が薄いようにも受け取れる。その一つに「森林荒廃」の事例も含まれている。
私はたまたま源流部でのイワナ釣りや登山を通して奥山から里山まで見る機会に恵まれていたからこの税金に関心を持ったのだが、毎日宇都宮市内だけを行動範囲としている女房はその税の存在さえも知らないでいる。
栃木県は今年の4月からの課税導入となるのだが、他県では既に実施されている所も多い。高知県や兵庫県、岡山県、山口県、奈良県、神奈川県など17自治体、その後も当栃木県や富山県、広島県などが導入を決めている。
下野新聞の特集を機会に栃木県の森林環境について情報をお伝えしながら色々と学んで行けたらと思う。更に導入されている他県の方々のご意見なども聞かせて戴けたら幸いです。
今日は午前中にやって来た仕事の話から・・・
今日は地下水用ポンプの交換をして来ました。ポンプの出力が低下して圧力が掛からず年中ポンプが作動している状態の物を交換して来ました。
ブログの話題にポンプの交換作業を書いたところで仕方が無いので地下水の話を少し。
「地下水は夏冷たくて冬暖かい。」と聞いた事はありませんか?
実際に使っているお宅に聞きましても同様の答えが返って来ます。
ではここで「何故?」と思った方だけ先に進みましょう!
「そんなの知ってるよ!」という方は他のブログにさようなら!!(笑)
さて、では「何故?」にお答えします。
地下水の水温は一年間を通して大体15℃前後です。
勘の良い方はここでもうお判りでしょうか。
気温が30℃を超える夏に15℃の水。冷たいと感じますよね?そして逆に水も凍るくらいの冬に15℃の水は温かいと感じます。これが理由です。
地上の気温が地下に影響する(伝わる)のには半年掛かると言われています。
夏の暑い気温が地下に伝わるのは冬、冬の冷たい気温が地下に伝わるのが夏。
こう考えると地下水の水温が一定なのも頷けるというものです。
一年を通してこれからが一番冷え込む季節です。
ちなみに水道管は地中に埋められているものは凍りません。水は冷たくなったとしても凍るほどにはなりません。そしてその埋められる基準は霜柱が立つ範囲以上、すなわち30cm以上深く埋められていれば凍りません。
ご家庭で水道が一番凍るのは金属の部分です。単純に蛇口がそうですし、トイレのタンクに結ばれている部分、忘れがちな給湯器の連結部分などが要注意。
水道が凍ってしまうのは未明の一番冷え込む時間帯です。でも、動く水は凍らないですから、必ず一日に一度(朝方がベスト)は蛇口を開けて水を出す事です。
ご家庭の水道を今一度注意して点検して下さいね。
これは昨年再建された「宇都宮城」です。
財政難の市政から見て宇都宮城の再建の是非はまた別の議論として完成した「宇都宮城」にまつわる話を書きます。
歴史好きの方は名前くらいは聴いたことが有る事件です。
【釣り天井事件】
宇都宮の伝説として全国的に最も著名なものは字都宮城の「釣天井」の話であろう。
古くから関東7名城の一つと伝えられた字郡宮城。わずかに本丸跡を残すだけで往時の姿をしのび以前は「釣天井」の伝説だけが字都宮城の存在を人々に知らせていた。それがこのほど再建されて城の形を整えた。
この釣天井の伝説は,徳川2代将軍秀忠が1622年日光社参の帰路、字都宮城に泊る予定を急に変更し,壬生を通って江戸に帰ったということと、その直後に幕府の重臣であった宇都宮城主本多正純が失脚し、横手(秋出県)に転地させられたことから作られた話しといわれている。
また将軍は秀忠ではなく家光とするのが一般的である。ここでも家光を時の将軍として「釣天井」を紹介する。
3代将軍徳川家光の弟に,駿河大納言忠長という人がいました。忠長の幼少の時のお守役が本多下野介正純でした。正純は忠長を3代将軍に立てようと思っていましたが家光が将軍になってしまい残念がっていたところ,寛永13年4月(1636)家光は,家康公の7回忌法要のため,日光廟に参脂することになり,帰路宇都宮城に一泊ときめられました。
これを知った正純は老臣河村靭負と謀って釣天井の仕掛けを城内に作り家光を圧殺しようと大工を集めて秘かにその工事にとりかかりました。
この秘密が他に漏れることを恐れて大工を城外に出しませんでした。しかし大工の中に与五郎という若者がいました。
与五郎は名主の植木藤右衛門の娘お相と恋仲になっていたため恋しさの余りある時お稲に会うため城内を抜け出しました。
釣天井の工事が完了すると城内では工事の秘密が漏れることを防ぐために大工達全員を殺し城中の古井戸に投げ人れてしまいました。
しかし与五郎の亡霊がこのことをお稲に告げてしまいました。お稲も悲しさの余り,ことの始終を書き残して与五郎のあとを追って死んでしまいました。
2人の遺書を父,藤右衛門が発見しお稲の遺書と釣天井の絵図面を持って日光から江戸へ帰る将軍の行列中の伊井掃部頭に訴えたので家光は宇都宮城には泊らず江戸へ帰り、危うく命拾いをしました。
「釣天井」事件の主謀者である宇都宮城主本多正純は捕えられて処刑されたということです。
以上 宇都宮伝承地より
今日、宇都宮市では各地区で成人式の式典が催されました。
宇都宮市の場合、中学校単位で会場が設定されます。そして市の職員の方々と地域の団体役員たちで実行委員会を組織して式典の進行をお手伝いします。
私も今日はお手伝いの一員
今回の新成人は丁度次女の同級生たちでしたが、誰一人として顔が判らず送り迎えのお父さんやお母さんと一緒にいるところで「ああ、○○ちゃん!」と言った具合。
そして彼、彼女らが大きくなり容姿が全く変わってしまった中で、親達も相応に年を重ねていました。
成人式は新成人のお祝いの催しではありますが、保護者達が久々に顔を会わせる懐かしい保護者会でもありました。
式典も混乱無く無事に終了
会場を後にして行く新成人たちの新たな人生のスタートに立ち会えた事は幸せなのだろうな・・・と思いながら帰って来ました。
以前、新聞に「伝え合う心」という記事があった。
会話を通してコミュニケーションを深め、イジメなどを防ご
うという試みである。大切なのはそれを小学校で取り組んでくれていること。
話す相手と向かい合い、自分が聞きたい事をわかるようにハッキリと質問する。
質問された方は相手に判るように答える。
基本的な会話でありながらそれが出来ないのが現実。
「みんなとしゃべりたいけど恥ずかしい」と引っ込み思案な子供は結構多いものだ。
かく言ううちの隊長もその典型である。
自分に対して挨拶されたり質問されているのに答える事が出来ない。
何かして欲しいことがあるのにお願い出来ない。
見ている親としてはハラハラするしじれったい。
その場は笑顔でも後で小言のひとつも言いたくなる。
えてしてこんな子は家庭の中では大声で話し、威張りまくる。内弁慶と言う奴である。
これは単に外では「恥ずかしい」からしゃべれないのであって基本的には会話が出来るということになる。
「恥ずかしい」を克服するには「馴れ」しか無い。
この馴れさせる手段としてのこの小学校の取り組みは結構効果的である。同じ事を家庭でやっても意味が無い。相手は家族であり他人ではないからである。
子を持つ親としては周りの人々と何かれと子供らしい会話が出来るのを望むものである。
家庭で教えられるのは「挨拶と返事をしなさい。」という事だけで訓練は出来ない。会話は意外と難しいものだ。
私自身、社会人になるまで引っ込み思案の内弁慶だった。仲の良い友達とは会話をするが親戚のオジサンおばさんや近所のオジサンおばさんに話しかけられるのが怖かった。電話なんか大嫌いである。
それが今では若くて綺麗な女性との会話が苦手なくらいであとは大体OK。もしあなたが私と普通に会話しているならば、あなたは若く無いか綺麗でないかなのだと自覚して欲しい。(笑)
と言う事で自分なりの経験から言えば引っ込み思案の内弁慶も時が解決してくれるものではある。
しかし、今は1人でも何とか時間が過ごせる時代。テレビもゲームもあるからだ。
コミュニケーション不足からイジメや仲間はずれ、友達が出来ないなどと、子供の頃の悩みと言うものは多いが今は逃げる先が有る。
逃げた先には大きなしっぺ返しがあるのに若いうちは気が付かないものだ。
隊長には出来るだけ会話が出来る子供に育って欲しいと思う。
そう願いながら遊びに連れまわす副隊長でした。
*内容と写真は関係ありません
この「みんなの山行記録」は自分の登山を記録出来るのが大きな魅力。
でも、残念ながらこちらのサイトを知ったのが昨年の11月の事で早々に登録したのは良いけれど、日頃の無精が祟って過去の登山記録が十分に残されていない。
辛うじてデジカメ画像があるので行程と日時はある程度判る。あとは記憶を掘り起こして日記とルート行程の詳細を出さなくては完成しない。
それが漸く今日、ここに載せている一番古い記録を一つ更新する事が出来た。
釣行と同時進行なので純然たる山行記録では無いけれどまあ良しとする。
行程表のポイントを手持ちのデジカメ画像から拾い出す。それに従って地形図で高度を調べる。全行程を地形図に落としポイント間の距離を計る。
ここでマイフレンド「ほーちゃん」の提案を採用。糸は釣り屋らしく毛鉤用のスレッドを使う。ルート通りに糸を這わせて三角スケールで長さを計る。う〜ん、良い感じ!
こうして漸く日記から写真、行程表、ルート図まで揃った2003年「天狗角力山」の山行記録。
この調子で古い奴を更新して行くのも楽しい。
ありがとう、ほーちゃん。
さあ、次も頑張ろう!
昨年のクリスマス前の話です。
暮れの大掃除で懐かしい物が出て来ました。
長女は今年22歳。直接話す時には名前を呼びますが普段みんなで話をしている時は「おね〜ちゃん」と呼びます。保育園の先生になってもう2年が経ちます。勤めている保育園は隊長が通っていた保育園の分園で我が家から歩いて3分。でも長女は何故か自転車で通います。
「おね〜ちゃん」はお絵かきと物語を作るのが大好きでした。長女ですから次女が生まれるまでの暫くの間は一人っ子。そんな遊びで暇を紛らわしていたのでしょうね。
私の手元に当時彼女が作ってくれた贈り物があります。肩たたき券とお手伝い券と手作り小冊子「りんご物語」。時々それらを眺めては小さかった頃の娘を思い出していました。
「おね〜ちゃん」は私にとって初めての子供でしたから、容姿は別として(父としては容姿も可愛いと思っていたのですが、女房に言わせればチャーシューが服を着てる様だとのこと・・・(当時)。でもやはりそれなりに可愛かったです。
お絵かきしたり手紙をくれたりして今の隊長のようにいつでも一緒に過ごしました。(ああ、隊長は手紙もなにもくれませんけど・・・)。そうそう、「おね〜ちゃん」とは小学校6年生まで一緒にお風呂にも入りました。何か女房の一言で入らなくなったんですよね〜、ったくもう!
幼稚園の父親参観日の事。「お父さんの絵を描きましょう!」という時間でみんなに画用紙が配られました。先生が最前列の子供に画用紙を渡し、順送りに後ろに渡して行きます。どうしたことか一番後ろに座る娘の1人手前で画用紙が無くなってしまいました。不安そうに私の事を振り返る彼女に力付ける様にニッコリ笑って頷いた私でしたが、次の瞬間に彼女は泣き出してしまいました。
「さっきは何で泣いちゃったの?」帰りに手を繋ぎながら歩く道すがら娘を見下ろしながら聞いたのでした。どう答えたか定かではないのですが確か「笑ったお父さんの顔を見たら悲しくなった。」と答えたような気がします。
そんな昔の事をさっき台所でミシンかけをしている「おね〜ちゃん」を眺めながら思い出しました。
保育園から近いせいもあり、園児が我が家の前を通ります。「ここは○○せんせ〜のお家なんだ〜。」とお母さんを相手に話している声を聞くと「おお、うちの娘も先生と呼ばれる仕事をしているのか!」と嬉しくなったりします。
「何してんだ?珍しいな。」と聞くと「クラスの子のクリスマス用の帽子縫ってんの。」とのこと。画用紙が貰えなくて泣いた娘が今は先生ですもんね、こっちも歳とるわけです。
「みんなの分の帽子ちゃんと同じに作れよな。」そう冷やかす私に「うん」と一言答えて再びミシンが動き始めました。
世代交代と言っても隊長と副隊長の序列の話ではありません。(笑)
昨日のブログでパソコン歴10年と書きましたが、同時にデジカメも使い始めて10年となりました。
新しい物好きの私がこの10年で付き合ったデジカメは
カシオQV−10
フジFinepix1.2
オリンパスCAMEDIA C−2
オリンパスCー3030
カシオGーbros
オリンパスμー10
キャノンEOS Kiss Digital
と7台と付き合いました。
私の場合、デジタルカメラは渓流釣りとの縁が非常に深く、被写体は専ら渓流の風景とイワナ。ですから画質を追う事は勿論でしたが防水機能も常に重視して来ました。
ダイビングでの水中撮影ほどでは有りませんが、転んでも浸水してしまうので防水機能は結構必要不可欠なんですよ。
最初の2台は時代的にまだ防水システムが無く仕方が無かったのですが3台目C−2や4台目C−3030は防水ハウジングで撮影していました。でもこの防水ハウジングって結構重いし大きいのです。
山岳渓流釣りも登山と同じで重くて大きいのは避けたいところなんです。でも行き先が厳しくなればなる程、防水機能は無くてはならないものとなります。なんせザックを背負って釣竿片手に泳ぎますから。(笑)
ですから5代目のG−brosが出た時には喜んで飛び付きました。こいつは本体が防水機能付きのカメラでしたからねぇ、ここで画期的な進歩を遂げたわけです。これらのカメラでよく水中撮影したりして遊んだものです。
でもこのカメラ、肝心の画像が今ひとつ。腕が悪いのは仕方ないのですがピンボケ・手ブレがひどくて満足な写真は一釣行で数枚。これには参りましたねぇ。
被写体の色合いも忠実に出したいので出来るだけフラッシュを点けないで撮るから暗いとてき面です。これは次のμー10にも言えた事ですがレンズが暗いのが原因なのだと思います。
さて、タッキーのCMでμー10が登場。生活防水機能付きの高画質コンデジが登場しました。
「転ばなきゃいいんだよ!」と言いながら早速導入。確か2003年辺りの登場だったから3〜4年は使ったかなぁ・・・
最近では画質重視で色々な場面に対応出来るEOS kissdigitalも担いで行きますが、そんな時でもポケットにはμー10が入っています。こいつは私と一緒にかなりあちらこちらに旅していますよ〜。
さてさて、そしてこの正月にとうとう水深3m防水機能・・防塵機能・手ブレ防止機能付き710万画素
コンデジオリンパスμー790SWを購入!
このモデル、最新で水深10m・100kg耐圧というのが出ていますが渓流釣りには必要最低限で十分ですからね。
おまけに新型が出たお陰で値段も安くなり25000円(実際は貯まったポイント使って1GBメモリー同時購入で20000円だったのよ〜ん!)
さあ、これで気兼ね無く転べるっていうもの!
早く解禁来ないかな〜!!
そうそう、手ブレ機能も優れものなんです。私、この機能付きのカメラは初めてなのですが試しに手を震わせながらシャッターを押してみました。
ぜ〜んぜんブレない!
さあ、これで気兼ね無く酒が飲めるっていうもの!
早く宴会ないかな〜!! ヾ(^^;ォィォィ
わちのパソコン歴はおよそ10年だな。新しいもん好きのわちは早々にHPさ開いてデジカメ撮影の画像っこ貼り付けていたんせ。栃木県内でとばっくちの渓流釣り専門HPだったっぺよ。(笑)
始めた頃はEメールなんつーやつじゃなくてパソコン通信とか言っていた。ホームページも数すけねぇー頃でパソコン自体もNECのPC98全盛のじでえだぁ。
CDよりもFDっつうのが幅を利かせて・・・
それが今じゃHDDがGBクラス。CPUも三桁。記憶媒体もFDからCD,DVDに変貌を遂げてえる。
わちちば計算能力は低下し記憶力もおべーるより忘れる方が多いわね。パソコンっくれ要らねぇーファイルを捨てれば新しいファイルを記憶出来っけっどわちちば忘れるばかりで新しいファイルは入らねぇー。要はHDDが縮小傾向にあるでれすけだわねぇ。
その頃のデジカメは画質が現在の二十分の一以下。わちがとばっくちに買ったカシオQV−10が確か35万画素だったんべ。したっけ今じゃ携帯電話でもこれ以上あっぺよ。
コンデジでも1000万画素を越えるもんが出て来て記憶媒体もやはりパソコン並みにGBクラスだっぺ。名刺サイズのコンデジが出だすに至っては軽くて薄くて小さくてきれーん撮れっぺよ。正にちっこい奴ででがく撮ろう!のじでえだっぺ、しゃらくさ!
わちちば10年前から比べて前記のように記憶力が低下し、おまけに体重が増えて目は近視で望遠は利かず、加えて最近じゃちけえもんも霞んで見える。おなし薄くなっても髪の毛の方じゃ仕方がねぇーべ。
しか〜し、どんなにもぼれてもこれらの最新兵器を使うのはわちだっぺよ。ほんだわちが一番偉いのであ〜る!(゚0゚)ノ オー!
使いこなせればの話なんだわね、これが
ダイジけ?
ダイジだぁ! ヾ(^^;ォィォィ
昨年暮れにSNSの日記の方で「山行記録で使う物は?」という質問をしたらほとんどの方から「デジカメ!」とお答えを戴きました。私もご多分に漏れずデジカメを使っています。
デジカメを使う理由は勿論のこと画像なのですが、山行記録にはその画像に付属する撮影日時が大変役に立ちますね。
ポイント到着でパチリ! 出発にパチリ!
画像と共に時刻のメモも出来るのですからこいつを使わない手はありませんよね。
この他には地形図を見ながらプロトレックで高度確認をしているくらいで特にメモはしないので「記録作成にはちょっとメモくらいはしないと・・・」と思っているところです。
私は登山後の机上で地形図とコンパスで場所確認して高度や距離を出して記録更新作業に入るのですが、結構これも楽しい作業です。私が行く様な低山の登山道って意外と地形図には出ていませんから地形図から歩いたルートを割り出すのも面白いですね。
ただ、歩いた距離が今ひとつ。
道標に距離が書いてあれば良いのですが殆どが行き先の地名だけしかありません。私が持っているガイドブックにも区間距離は書いてありません。今のところ地形図と定規で距離を割り出しています。距離を測るのにマイフレンドから「万歩計」というご意見を戴いたので次回は使ってみようかと思っています。
ちなみに「栃木100名山」という本を使っていますが100名山に興味があるわけじゃなくて栃木県内の山のガイド形式の本では一番山の数が出ていて安いからです。100の山が出ていて1800円、一座18円!安いでしょ?(笑)
まあ、こんな具合ですから山行記録更新も暇が無いとなかなか進みませんけど、その過程も楽しみながらボチボチやって行きますのでよろしくです!
あ〜、少しずつ古いのもやらなくちゃ・・・
江戸時代に上野東照宮前で初めて奉納された出初式。
東照宮と言えば日光ですが、上野東照宮も恩賜公園内にある家康公を奉る神社。藤堂高虎が開いたお宮と伝えられています。
まあ、それは置いといて今日1月6日は宇都宮市でも消防出初式が行われた。
場所は宇都宮城址公園と二荒山神社前。
365日、日夜市内の火災、救急を守る方々の晴れ姿を隊長と一緒に眺めて来ました。
宇都宮城址公園では市内消防分団の8台がお堀に向かって一斉に放水。
思ったより勢いが無いのはお城に水が掛からない為なのかポンプの性能なのかは不明。(笑)
場所は二荒山神社前に移動。
鳥居前に梯子車が3台並んで垂れ幕とクス球を吊り下げて新年のご挨拶。
かなりの高さに他人事ながら高所恐怖症の隊長が一言
「ちんちんもげそう・・・」
こちらは木遣り保存会の梯子乗り
梯子の上のシャチホコは私の友人でした。(笑)
○○と煙は高い所に昇るといいますが、当たっている様で御座います。
とりあえず年の初めの、めでたい行事でした。
「ぼくはウィー本体がほしいです。サンタさんおねがいします。」
サンタクロースに宛てた手紙を枕元に置いて寝た隊長。隊長はまだサンタクロースの存在を信じている。
クリスマスの前日
「お父さん、淳くんがねサンタさんはお父さんだって言ってたけどホント?」そう聞いて来た。
「お父さん?お父さんだと思う?」
「う〜ん、違うと思う、お父さんお金無いもんね。」
変なところで信用があるものだ。(自爆)
「サンタいると思うか?」
「うん、いる。」
「そうだな、サンタさんは疑うとその年から来なくなるぞ。」
「そうなの?」
「そうさ、信じてもらえないなら行くもんか!ってさ。」
クリスマスの翌日、隊長の枕元には置手紙の代わりにWii本体が置かれていた。
しかも正直なサンタさんはWii本体のみ置いて行った。
でも隊長は本体のみで結構楽しく遊んでいた。
似顔絵を作ったり、写真でパズルをしたり・・・
何気に話を聞いたらゲームソフトが無くても楽しいらしい。
正月になって私が友人からゲームソフトを借りてあげた。Wiiスポーツというやつ。
テニス、ゴルフ、野球、ボーリングなどが出来る。
私は最初、馬鹿にして手を出さなかった。
今は何故か右腕が筋肉痛である。
今年の初日の出に登った山にまつわる民話を見つけましたので紹介します。
男抱山は−富屋地区の西部の西根と呼ばれるところに連らなっている山の一つで富士山のように長いすそを引いた美い山である。この山に次のような物語が伝えられている。
江戸時代、元禄のころ白沢宿(今の宇都宮市河内町)に「きし江」という名の美しい乙女が住んでいました。ふとしたことから徳次郎の西根に病気療養に来ていた江戸の「甚九郎」という男と知り合い、純真な愛情を燃やす身となりました。
甚九郎は江戸に妻子を残して来ておりましたので、里人はきし江を「あれいたずら娘よ」−「不義者よ」と後ろ指を指しましたが,それでも三里の道を毎日せっせと、愛しい男のもとに通い続けました。
一方甚九郎は、この娘を愛しの者よと思い、またある時は年長者のこととて、その先の分別を考えて苦しまないではいられませんでした。
そこで男は一案を考えある日娘に言いました。
「あなたが,そうして親も姉妹も省みずに妻子まである私みたいな者をこんなに思ってくれる誠心を、大変うれしく思います。しかし、世間の口もうるさいことですし、あをたも毎日毎日三里の道を通いつめることも容易なことではないでしょう。私をそれほど思ってくれるのなら、わざわざここまで来なくてもその思いの数々を文に書いて毎日明の六つにそれを燃してください。あなたが心変りしない時には、その文は紫色の煙をあげて燃えるでしょう。私はこれを男抱山の頂上から眺めて満足いたします。」
翌日から、きし江は甚九郎にいわれたとおりに募る思いを紫の煙にたくし、甚九郎は男抱山の頂上からはるかにその煙をみて安心して療養につとめました。
ところが、きし江の姉が妹の毎日の行動に不審を抱き、妹の恋文を盗み読んでしまい、その驚きのあまり巻紙に水をそそいでしまいました。
きし江は、それとは知らずにいつものように火をつけたところ湿り気のために煙は白く立ち昇ったのです。
これを見た甚九郎は、娘の将来を考えて一応は安心したもののやはり娘の心変りを悲しみ、ただ一時もその場にとどまっているのは忍びずに荷をまとめて江戸に立ってしまいました。
一方、事の意外におどろき慌てたきし江は、その足で男抱山にかけつけましたが既に甚九郎は見えず、ただ白々とわが家の方角、白沢宿に煙が立ち昇っているばかりでした。娘は悲嘆のあまり三日三晩食もとらず恨しい白煙をのぞみをがらついに山頂の露と儚く消えたのでした。
村人たちは,娘の純情にいたく同情して山頂に社を建てて悲恋の娘を弔いました。その後、この社は縁結びの社として尊ばれ、女性が秘かに詣でて、かなわぬ思いの相手方の方向を望めば、その恋の思いは不思議に相手に届くと伝えられています。
*宇都宮市の民話から
我が故郷の社の名前は「鷲宮神社」
この神社、一見田舎の寂れた神社の様だが、実は関東最古の大社として名高い由緒ある神社。
でも、私が育った時代は本当に単なる村の鎮守さまの様な神社だった。
何時の頃からか他所の町から初詣に来る参拝客が増え始め、ここ10年は1年の内の3日間だけ車が大渋滞する程の混雑。一時的に人口が3倍ほどに膨れ上がるのである。
私の実家は神社の近くにあるので帰省の時には町内を大回りして帰らないと街に入ってから1時間以上も渋滞にはまるという憂き目を見るのだ。
さて、その鷲宮神社が今年また一段とパワーアップした。その理由は「アニメ」。
何でも「らき☆すた」とか言うアニメの舞台にこの神社がなっていたらしい。
アニメオタクは凄い!
こんな寂れた町の鎮守さまでも、ちゃんとお参りにきてくれる。今年の初詣参拝者推定14万人。
何だか賑やかだった我が故郷の社である。
故郷の神社に初詣に行った。
懐かしい思い出が沢山ある社。
地元宇都宮にも二荒山神社という立派な神社があるけれど、やっぱり私はここかな・・・。
でも、今年はこの社がとんでもないことに!
それはまた明日にでも。(笑)
みなさま あけましておめでとうございます
2008年元旦の宇都宮は良い天気です。
宇都宮の日の出時刻は6:50、隊長と一緒に初日の出を拝みに近郊の山に登って来ました。
富士山も見えましたよ〜!
みなさん今年もよろしくお願い致しますね〜。