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麹500g379円也/バラバラにほぐす

醗酵研究の第1歩として甘酒づくりに挑戦!
2002年6月から7月に放送されたNHK人間講座『発酵は力なり』小泉武夫(東大農学部教授)によると、甘酒には、ブドウ糖が20%以上含まれ、人間が生きていくために不可欠なビタミン類が豊富に含まれているのだそうだ。
以下,同大学講座より〜
◆甘酒は、総合ビタミンサプリメント
麹菌が繁殖するときに、ビタミンB1、B2、B6、パントテン酸、イノシトール、ビチオンなど、すべての天然型吸収ビタミン群を作って米麹に蓄積させ、それが甘酒に溶出される。それゆえ甘酒は、まさに総合ビタミンドリンクなのだ。
また甘酒は天然の必須アミノ酸を最も多く含む飲物である。米の表面はタンパク質が多く、そこに麹菌が増殖すると、タンパク質分解酵素を出して分解し、アミノ酸に変えてしまう。病院でよく行われる点滴は、ブドウ糖溶液とビタミン溶液とアミノ酸溶液を血管から補給するものだから、これと同様の効果が得られるということだ。
麹500gに対して米2.5カップ(約380g)を2・5倍の水で粥に炊き、60℃に覚ましてほぐした麹を混ぜる。

粥2・5カップ/ほぐした麹500gを混ぜる

◆腸内環境を改善するジャパニーズヨーグルト!!
麹に由来する食物繊維とオリゴ糖が腸内環境を整えるので、便秘や肌荒れなどを予防・改善、体内の有害物質の排出に役立つ。この働きにより、甘酒は『ジャパニーズ・ヨーグルト』と呼ばれてもいる。
さらに、ペプチド(たんぱく質を酵素で分解してできる物質)の一種である『アンギオテンシン変換酵素阻害物質』という物質は、天然の降圧剤と云われ本態性高血圧症の人に効果があると言われている〜。
以下略

炊飯器を『保温』にして蓋を半開きにしたまま布巾をかけて8〜12時間置く。粥の温度が63℃より高いと麹菌が死滅する。多少低い(50℃程度)のはかまわない。13:00開始。
甘酒は、江戸時代には夏の飲み物だったらしい。即ち、夏は暑さのために食欲が減退し、エネルギーや栄養素が不足しがち。そのため神経や筋肉の働きが鈍くなり、疲れやすくなります。これが夏バテで、甘酒は夏バテを防ぐ総合栄養補助食品として飲まれていたのだそうだ・・。

10時間後/表面が少し黄色くなった

23:00現在の様子。完成! 表面が黄味を帯びている。保温を解除して蓋を閉め保存。
52〜55℃に保つこと8時間あまりで甘酒が出来た。砂糖を使ったわけでもないのに見事に糖化してすごい甘さになるのには驚いた。こんなに美味しいものがこんなに簡単につくれるのならもっと早く着手すべきだったと思う。
さて、この甘酒に酵母や酵母代わりに酒粕を加え、一定の温度を保って2週間寝かせるとアルコール転化が起こるが、それは違法行為である。

桐原城の廓にて
最後に訪ねた桐原城は、規模こそ小さいが戦国時代の山城の成り立ちを最もよく伝えている点で出色である。

竪堀を思わせる登り口
まず第1に桐原城は林城に比べて急峻な山に設けられていて、それ自体が敵の侵入を阻む要塞としての主要素になっていると言う印象を受ける。そのことは廓に登る道自体がまるで竪堀を登っているかのような急坂であり、しかも他に攻める道がないと言うことからも伺える。堀切が設けられているのは言うまでもない。

狭い上に斜度30度以上の竪堀

第2に、仮に他の侵入路から攻めることを試みるとすると、それらはすべて無数に設けられた竪堀につながっていて侵入者が横に移動することを阻み、まっすぐ登れば上から迎え撃たれて容易には落とせない仕組みになっていることを非常にわかり易く提示してくれている。

土塁を支える石垣と補強の欅/一の廓の下にも腰廓

また、こんもりした小ピークを切り開いて平坦にした感じの一の廓の土塁と土塁を裏側から支える石垣や腰廓の二〜四の廓,帯廓等の保存がよく、つくられた過程や山城の成り立ちが一目瞭然である点,絵に描いたように博物館的でわかり易い。
竪堀を下ってみた!
竪堀は少なくとも8本以上あり、中には行き止まりになっているものや畝状に畝ってしかもそれが枝分かれし、どこへ導かれるかわからないままバラバラに分断されて孤立したところを迎え撃たれるようにつくられた(畝状竪堀)ものまである。
帰路はその竪堀の最も大きなものを下ってみたが、実際に上から見下ろしながら下るといかに急傾斜であるかがよく分かる。

まず狭い上に急坂なので攻め手は1人づつ登ることになり、数にものを言わせることが出来ない。横に走ろうにも堀は深いし連絡路もないので竪堀の中を上へ上へと行くしかないが、それは攻めている筈がいつの間にか誘い込まれているに等しい。上には巨岩や槍ふすまが待っていたことであろう・・。

面白雑兵体験終了

途中から雑兵になったような気分に襲われた。後からは槍で追い立てられ、登れば死が待っていると分かっていながら進むしかなかった雑兵達の恐怖と悲哀に身がすくむ思いがする。

他のブログで10分もかからない記事の投稿に2時間かかってやっと記事1本書き上げ、開いてみるとサムネイルでアップしたはずの写真が馬鹿でかくなっていてやり直し・・。
一度アップした写真を消去して再度アップして記事を書き直す。写真を1つアップするのに3分近くかかるので1つ差し替えるだけでも多大の時間を費やす。それで直ったかと思うとまたまた馬鹿デカ写真でまたやり直ししてついに3時間を越え、さすがに切れた。
この重さはすで数週間におよんでいる。もはや記事を書く気も起こらなくなり、今後更新は断念することにした。

里山楽会・境界線の1月山行は『長野県史跡・小笠原城跡めぐり』と称して松本市内の林城と桐原城を訪ねるハイキング。

林城は建武年間(1334〜),信濃守護・小笠原貞宗が府中に井川館を設けて以来,小笠原長時が武田晴信に敗れて退去した天文19年(1550)までの約200余年間,厳しい戦国の世に処した小笠原氏の本拠地で、中世における連立式の築城遺構を持つ。城跡は林城の大城,小城および、その前衛をなす桐原城を含めた雄大な要塞として、守護小笠原氏の貫禄を示すものであり、県の代表的な史跡となっている。

美ヶ原を背にした薄川にかかる金華橋のたもとから城址公園の尾根につけられた散策路に入るといきなりの急登となり、ふり返る正面には鹿島槍・爺ヶ岳を見る。尾根を登りきると松林に囲まれた緩やかな道となり、一ノ門跡を経て30分ほどで大城に着く。

林城等の山城は、平城の城郭の本丸・二の丸に当たる『廓(くるわ)』と称する平坦地を中心に、廓の下側に設けられた『帯廓』・『腰廓』と呼ばれる平坦地,廓の周辺に土を盛り上げてつくる『土塁』,尾根筋からの敵の侵入を防ぐために尾根を切るように設けられた『堀切』,敵の横移動を防ぐために山の斜面に縦方向に設けられた『竪堀』,敵が登りにくいように地面を掘削して急斜面を作り出した『切岸』などからなる。即ち、城は『土から成る』ものであり、それが城と言う字の元(土偏に成)になっていると言える。

林大城の廓はかなりの広さで、周辺には土塁が設けられてある。このように廓の周りに土塁を積み上げるのが小笠原氏の山城の特徴なのだそうだ。

化粧井戸跡
水は薄川の上流から用水路で引いて来て、この粧井戸に溜められたものと思われる。

大城から下って大嵩先(おおつき)と言う集落に下り、集落を挟んで連立する林小城に向かう。

1月10日(日)
大荒れの予想に反して朝からピーカンの好天で気温も屋内でー2℃程度とさほど低くなく、絶好のトレッキング日和。冬季の周辺の事情がよく分かっていないので『森の家』で情報収集した後、スノーシューと歩くスキーで家の裏から続くブナ林に向かう。

スノーシューは初めてと言うKeitiさんはすぐに要領をつかんでぐいぐいと先頭を行く。自分は相変わらず下手なスキーで追いかける。ストックの雪止めが壊れてただの金属棒にすぎず、うっかり転ぶと起き上がれなくなるので転ばないよう慎重に歩く。

雪面に長く伸びるブナの影を横切って先行者2人の足跡が点々と続く。見上げれば抜けるような空。

ブナ林を抜けると目の前に広大な雪原が広がり、その先に信越トレイルが走る県界稜線のうねりを望む場所に出る。そこは原野を開発して新しくつくられた大規模な農場で、夏には主にアスパラガスを生産していると聞く。その雪原を今は自由自在に,思いのままに歩くことが出来る。

畑と畑の間を走る農道の間の本来は切通しになっている部分に雪が溜まって程よい斜面ができ、そこでソリ遊びをしている一団の歓声が響く。他にはこの広大な雪原に遊ぶ人の姿は見当たらず、先行する2人は無垢の雪を蹂躙するかのように蹴散らしてまっすぐ進む。
鍋倉山はどれ・・?
正面やや左が関田峠方面,さらに南方に鍋倉山と思われるどっしりした山が見えていた。だがそれを鍋倉山とするとその北にある筈の黒倉山にあたる山が見えない。2.5万図を見ていたKeitiさんの『鍋倉山の陰になっているのではないか』と言う読みで出来るだけ高い位置を目指して進むうちに、『森の家』が圧雪した幅5mほどのコースに突き当たる。コースは農道にそって延々と伸びており、おそらく山の麓に達しているものと思われた。圧雪されたコースを歩くにはつまらないが、ガスに巻かれた時などはこのコースを下れば無事に下山できると言う安心感を与えてくれているようだ。

Keitiさんの読み通り鍋倉山の影からもう1つ尾根が見えてきてそれが黒倉山だろうと言うことになった。見届けて引き返したが自分にはどうしても納得が出来ず、鍋倉山から派生する支尾根ではないかと思って『森の家』のスタッフに聞いてみるとkeitiさんの説が正しいことが分かった。

けれど往生際が悪いと言うか頭が悪いのか、地図では鍋倉山の北にある筈の黒倉山を北から見ているのに、なぜ鍋倉山の陰になるのか未だに理解できない。しかも2.5万図では明らかに黒倉山が鍋倉山より北であるのに、スタッフは『黒倉山は鍋倉山の南』だと言った。これまた理解できない。

改めて地図を穴が空くほど見続け、結論に合わせて解釈を試みるとこうなる。
鍋倉山と黒倉山の高度差は約40mで自分達の位置は鍋倉山の東北東である。普通,ほぼ同じ高さのピークが隣り合っていて、それを直角方向から見れば2つのピークが仲良く並んで見えるものと思い込む。だがこの場合は思ったほど北に寄ってはいなくて両者が重なって見えてもおかしくない斜め方向から見ていたというのが1点と、もう1点は、地図からもわかるように、鍋倉山から東に伸びる尾根が思ったより大きくて、それは黒倉山を隠すに充分なほどであったと言うことになるだろうか・・。
あまりスッキリした解釈ではないが、そう考える以外に自分をなだめる術がない。拘り性にも困ったものだ。

鍋倉山の麓・柄山地区の古民家に宿泊中。10日13:30 着。道路の除雪終了点から家の入り口までの20mを腰まで埋まりながらラッセルして玄関に辿り着き、5週間ぶりに中に入る。ヒンヤリと空気は冷たいが、湿気も黴くささもなく家はいたって健康。

とりあえず荷物を運んでから道づくりと駐車スペースの除雪にかかる。雪の多い飯山市では積雪が10cm越えると幹線・支線を問わずすぐに除雪車が出動するのでどんなに降っても家の近くまで車が入れるのだが、この家に場合は赤いポールまでが除雪対象で、そこから先は自力で除雪しなければならない。
その赤いポールから先に車が2台入れるスペースをつくるべく奮闘するも奥行き3m×幅2.5m×厚さ1.5mの除雪は容易でなく、3時間で半分程のスペースを確保した頃には暗くなりはじめて中断。夕食の準備,風呂焚きへと続く・・。

夜は中高年男3人,薪で焚いた風呂で冷えた体を温めた後、熱々のキリタンポ鍋をつつきながらの大放談。いつしかそれがイビキに変わり、そのまま豆タン行火のコタツに足をつっこんでのごろ寝となるる。
雪の割にはと言うか雪だからと言うかちっとも寒くない戸狩・柄山の夜。ただ、朝になって車のドアが凍りついて開かないのではないかと言う一抹の不安のみあり。

草に埋もれたホレンソとルッコラ。08・10・16播種

ハウス内は真冬でも乾燥するので潅水しないと萎れてしまう。なので1週間に一度くらいは水遣りに行く。だが水ダメの水はカチンカチンに凍ってどうなるものでもないことを忘れていた。やむなく水を汲みに走る・・。その水汲み用のポリタンも地面に凍りついていて無理に剥がすと壊れそうだ。
ハウス内ではホウレンソウとルッコラが相変わらずしっかり草に埋もれながらゆっくり育っていて、ホウレンソウはいつでも収穫可能だ。採るのをためらうほどにほど緑が濃く、それが愛おしい。まもなく播種から3ヶ月。

08・11・10播種のコマツナと同じ苗の08・12・1の写真。播種から2ヶ月,前回写真から1ヶ月でやっとここまで育った。

同じく08・11・10播種のナバナとホウレンソウ

ナバナの蕾は瑞々しいが
露地のアカバナミツマタの蕾はまだまだ固く

アルプスは今日も雪を戴く

元日登山の際,聖山に登ろうとして虫倉山の登山口にピッケルを置き忘れて帰ったことに気づき、やむなくピッケルなしで登った。探しに戻ろうにも前夜から一睡もせずに登った後で、運転できる状態ではなかったし、半日以上過ぎた時点ではもはやそこにあるとは思えなかったのでその段階で半ば諦めた。
アンチストック派で夏山では決して手に何も持たないのが信条だが、雪道はちょっとした山でもピッケルがないと不安定でいけないし、10日からの鍋倉山の偵察のことを考えれば買うかどうにかしなくてはならない。
買う前にせめて地元の駐在には届けておこうと思い、また山頂にいた人が地元の人だったので名前でも分かれば,と思ってダメ元で役場に相談してみた。

電話に出た役場の職員女史が『役場にも山に登る者がいるので聴いてみましょう』と気軽に言ってくれたのが9時前。それから3時間もしないお昼前に件のピッケルが見つかったと言う知らせを受けてびっくりした。
失せものが見つかったのだから喜ばしいことなのだが、『見つかりましたよ』『〇〇課の者が現場まで行ったところあったそうです』と言われるのを聴いた瞬間,『何てことしたんだろう』と血の気が引くのを感じた。

旧八坂村/聖山遠望

本当に必要な大切なものなら、見つかろうが見つかるまいがまず探しに行くのが筋である。それを、八方手を尽くした最後の手立てとしてならまだしも、自分は何もせずに電話で他人を動かして探させ、見つかったから受け取りに行くとは何様のすることであろうか・・,と、嬉しいはずが逆に気が滅入る。
受け取りに行くのは気が重かったが、電話で応対してくれた女史も現場まで行ってくれた職員氏も、さらにはその場にいた他の職員諸氏までもがにこやかに『見つかってよかったですネ』と言ってくれ、それが決して表面的な物言いでないことがよくわかって益々恐縮した次第。2度と繰り返すまじ!

帰路は久々にオリンピック道路を小川村まで走り、美麻から唐花見湿原の傍を通って大峰高原経由で池田町に下るビューコースを取ったが、この日は雲が重くアルプスの銀嶺も聖山のアンテナ群も望めなかった

雪は決して多くないが

氷魔は水車を止めた

山里に人ひとり見えず

滴る水音さえない

かく

水車は凍れども

季節は歩むを止めず

虫倉山の麓,中条村『虫倉共和国』。そこに水車小屋があった。

凍りついて動かないかに見えていたその水車がゆっくりと自分のほうに向かって廻っているのに気づいた次の瞬間,水車は動きを早めて水桶に溜めいた水をどっと吐き出した。

だが、その後で水車は奇妙な動きを見せた。勢いを得て前に廻るはずの水車が、水を吐き出した後元の方向に戻ったのだ。
よくよく見ると全部同じ方向に揃っているはずの水桶から垂れ下がったツララの向きが場所によって違っている。それは、廻りかけたり戻ったり、水車がその動きを繰り返していたことを物語っている。

一旦前に廻りかけた水車がなぜ元に戻るのか・・? 帰りの車の中ではそのことで頭がいっぱいになる。

思うに、水車が前に廻る勢いを得るためには、水桶1個分の重みで傾いて水を吐き出した後、さらに次の水桶に溜まった水の重みが加わって後押しされなくてはならないのだ。供給される水の量が少なくて、次の水桶がいっぱいになるまでに時間がかかりすぎるとその勢いが得られず、水車は得られた角度を保てなくて自重で元に戻るしかないのではないか・・。
かくして水車は冬の間中,行ったり来たりを繰り返すのだろう。もう少し水量が多くて、しかもそれが一定の回転が得られるほどの量でなければ、水車は溢れた水でガチガチに凍りついて動けなくなるのかもしれない・・,などと想像を広げるうちにいつしか眠り込む。

山里は平和を絵に描いたような佇まいを見せて、今日もそこにある。

6:34 木の間越しに東の空が赤く染まるのを見る。肝心な時にはいつも言うことを聞かないカメラをなだめすかしている間に相方から大きく遅れ、山頂に着いたのは日の出の後。

着く早々にお屠蘇をふるまわれる。虫倉山には2パーティー,約10名の先客が古典的な新年の宴を張っていた。すなわち60〜70年代型の大きなコッヘェルに将棋の駒型の煤けたポリタンク,コンロだけは現代風のガスでつくるのはもちろん雑煮。油を持参してフライパンで揚げてから煮ているパーティーもあって本腰だ。1つは地元中条村,もう1つは信州新町からのパーティーで恒例の新年登山のようだ。

はじめから薄着で登ればよかったものを、バッチリかためて歩き始めたのでいつもより余分に汗をかいてしまった。思い切ってシャツを脱いで乾かす。

天候は悪くはないのだがめまぐるしく動くガスが山頂付近にあり、指呼の間の戸隠山はおろか、妙高・火打方面も白馬・北アルプス方面も展望が利かず、長居は無用と早々に下山する。

1300余mの低山ながらブナの木が見られる他,桂の木が多く、中に7,8本も株立したものが見られた。

ケヤキ?

登りは5:45発,7:18着,1時間35分。下りは7:45発,8:35着,50分。

不動滝

元日の朝,虫倉山に登った後,じゅんちゃが『もう1つやろうよ』と言い、聖山に登る。思いがけずそこでブナの『あがりこ』を見る。
いつごろ切られてこうなったのか・・,かつてこの山は何もない平原だったと聞くが、おそらくそれは戦後の皆伐時代の所業なのかもしれない。しかし、こう言う風に胸高の位置から無数の株が立ち上がるのは、普通は意図的に彦生えが出るのをねらったものとしか考えられない。
即ち、薪炭材等として樹木を利用する場合,根元から伐採すると新しく植えなおすか、植栽に寄らず天然更新に期待するしかなく、植栽の場合は30年以上かかるし、ブナの天然更新などは考えられもしない。それが、胸高で伐ってそこから発生する彦生えが成長するのを利用すれば15〜20年で再び利用できるのだ。
これを萌芽更新と言い、場所を少しづつ変えて行けば15〜20年後にはまた元に戻って彦生えを利用できると言う訳で、古くからコナラやクヌギなどの林は薪炭材や堆肥として利用され、里山はこのように人々が管理することで維持されてきた。

聖山でブナのあがりこが見られるのは意外なことだ。それはブナという木が人々の生活圏の中で共生するコナラやクヌギ等と違って1300m以上の高山でしか見られない木であり、そこは必ずしも里山とは言い難い山であること,また奥山のブナはパルプとして伐られることはあっても薪炭材にするためにわざわざ苦労して1400m余りもの高所に伐り出しに行くとは考えにくいこと等に因る。さらに言えば、萌芽更新の場合は『もやわけ』と言って無数にある萌芽を2〜3本だけ残して間引く作業が行われるので、このようにたくさんの彦生えが乱立することはない。
同じようなあがりこが松本市のすぐそばの戸谷峰でも見られたが、戸谷峰に至っては1600mもの高山であることから、さらに理解しがたい。
聖山と戸谷峰に共通するあがりこの不思議・・。両方とも一過性の伐採が行われたのではないか・・,と言う気がするが、何の目的でこのような伐り方がされたのか、これは立ち入って調べて見なくては・・,と思いながらそのままなっていたことである。

それはそれとして聖山のブナを存分に楽しんできた。聖山は高原状の山で、山頂付近は強い風に吹き晒らされる。このような場所では樹木は高く突出することを避け、平均の中に自己を埋没させることで生き延びようとするのでおしなべて丈が低く、細い幹をひょろひょろとくねらせる特徴的な姿を見せる。この点はブナも例外ではないが、それでもブナにはブナの風格がある。

200mほど下がった林道付近は見事なカラマツ林だった。冬は木々が葉を落とし林内のすべてを見渡せるのがいい。そこに雪があればさらに嬉しいではないか!