アーカイブをご覧いただけます。February 2008

2005年3月,中学校卒業年令に達した亮介は、カナダへ留学するためにその年の9月から語学留学する意思を固めていた。
春休みには、姫路城,厳島神社,平和公園の3つの世界遺産をめぐる広島への旅を企画しており、亮介にとって広島へ行く最後のチャンスになるので、一緒に行こうに誘うと拍子抜けするくらい気軽に応じて、前年以来の計画が実現する運びとなり、5年生の男児が3人と、3年生,2年生の女児2人を加えて総勢6人のにぎやかな旅となった。
亮介は上背があって高校生のように見える。見た目は逞しくて顔つきは優しい半おとなのような亮介の存在が、小学生の子ども達に安心感をもたらしているのがよく分かった。

トクトク切符
広島行きはそれが初めてだったが、各駅停車の電車旅はその2年前(2003年)の春休みに小学3年生の2人の男の子達と一緒に東北をぐるっと廻ったのが最初である。
当時は週末3連休パスと言うトクトク切符があり、子ども達は4000円で長野以北の関東,東北の特急・急行を含む在来線に自由に乗り降りすることが出来た。
同じ切符がおとなは28000円だったのでそれはつき合えないから、私は1日当たり2300円で乗り放題の青春18切符で、従って各駅停車で同行すると言うことを前提とした旅である。

引率者の旅費を子ども達の参加費でまかなえばいいではないかと言う人もいるがそれは出来ない。なぜなら、冒険学校は会員制であって私も会員の一員だからだ。私は子ども達にたいして引率や指導や安全確保の義務を負っているが、それはそう言う立場であると言うことに過ぎず、それによって対価を求めるものではない。従って自分の費用は自分で負担する。
28000円は私には大きすぎる出費だが青春18でならつき合えるので、この際私の条件に合わせてもらうと言うだけのことだ。それに青春18なら地域を選ばないので西日本にも行けると言う利点もあった。

各駅停車なのでここから先はあちこちに途中下車しながら進むことになる,あるいは脱線することもあるかもしれないが・・・,
JRの利便性は年々後退している。2003年の東北一周の時は松本発の1番列車で秋田県の大館市まで行けたが、今は秋田までしか行けない。秋田には20:42に着くが、大館行きの最終は20:06分に出た後なのだ。大館まで行けるか否かは翌日の行動に大きく響く。
大館発6:39に乗れば8:19には青森に着くが、秋田からだと5:40に乗っても弘前で2時間待たされて青森着は10:51となる。大館より1時間早く起きて乗って、青森には2時間半も遅い昼近くに着くのだ。
週末3連休パスも無くなった。 続

今日の昼食。コープ長野の焼きソバWに茶碗半量の残り飯を混ぜて、キャベツ,ニンジン,ピーマン,ニンニク,ノラボウ等,残り物の野菜の総ざらえに手づくりベーコンの厚切りを加え、総重量800g+イワシの尾かしらつき1尾に味噌汁,併せて900g強。普段よりやや多め。まだ入るがこれ以上は無駄食い。

上:Aさんの4〜7週/下:Aさんの6〜7週

第7週目を終えたAさんの体重の記録。朝の値が目標値に近いところで安定している。この週は夜の10時まで会議のある日が2日続いたらしい。
先々週も同じことがあって夕方何も食べずにぶっ通しで会議をして、遅くに帰って食べてすぐ寝るのはよくないから夕方軽くでも食べるようにとアドバイスしておいた。その通りにしてみると帰ってからの空腹感もなく、食べずに寝られたそうだ。

上:Bの3〜6週/下:Bの5〜6週

B(木偶)はリバウンドからやや脱却し踊り場で一休み。
夕食前に体重計に乗ってみると、日中しっかり食べているのに殆ど朝の値まで下がっていることが多い。それなのに夕食後は、控えめに食べてもなかなか下がらない。昼間と夜間では同じことをしているようでも代謝が違うのかもしれない。遅い夕食は要注意だ。
逆に言うと夕食さえ気をつければむやみに太ることはないと言うことだが、日本人には一番難しい課題かもしれない。
一日の食事の中心を夜とするか朝とするかには国民性があると言うようなことをTVで言っていた。それによると日本人は欧州なみに夜型らしいが、韓国やアジア諸国には朝型が多いそうだ。

我が生ゴミぼかしBOXはEM菌などは使わず、段ボール箱に米糠と腐葉土を混ぜた培養箱に生ゴミ+米糠を投入するだけの超簡単・格安のぼかしBOXで、しっかり撹拌しておくとすぐに発酵して1日後には温度が50℃くらいにまで上がり、2日後にはゴミが原型を留めなくなる。その時点ではまだ水気があって粘っこいが、3日後には水分も抜けてボロボロの粉状になる。厳密に言うと発酵しきれない固形分も残るので、それを丁寧に砕いてやらなければ完全な粉状にはならないが、それは気にしない。
だが、さすがに零下続きの真冬日には発酵が進まず、ゴミが原型のまま固まってしまってお手上げ状態だった。

発酵してくれないと生ゴミは増える一方で、たちまちBOXが一杯になってしまうので新しくつくり直そうと掘り返してみると、ほかほかの湯気が立ち始めた。固まっているように見えた上っ面の下で、発酵菌が大活躍していたらしい。
3日ばかり放置している間にゴミはほぼ完全に細粒化していたが、それまでに発酵しないまま固まっていた古い生ゴミが回りにいっぱいあるので大きく掘り返してしっかり空気にさらし、スコップ1杯分ほどの米糠を投入しておいた。

休眠状態だった原因が寒さであることは推察できるが、大寒から立春ころの一番寒い時期であっても盛んに発酵して湯気を立てている場合がある。
生ゴミと糠の量の相対的な関係(比率)や水分の含有量と、それらと外気温との相関なのだろうと思うがほんとうのところは分からない。
理屈はどうあれ厳寒の最中でも発酵しうるという事実がある。我が愛すべき『発酵菌君』達はちゃんと生きていたのだ。
そうであれば『真冬は駄目だ』という結論を出す前に、もっと活性化のための努力をして見るべきだったかも・・。

2月半ばを過ぎると、微生物達の働きも活発になってくるはずなのでその心配はなくなるが、それは腐敗菌達にも言えることなので毎日しっかり撹拌して発酵菌達を元気づけてやらなければならない。
糠みその管理と同じだ。
化学薬品企業から生命科学企業へ〜モンサント社の主張
『これからの世代が飢えることを心配するだけでは、彼らの腹を満たすことは出来ません。食糧バイオテクノロジーが彼らを食べさせるのです。
世界の人口は急速に増加していて、10年ごとに中国の人口に相当する数の人間が増えています。更に10億もの人々を食べさせるためには、農地を拡大したり、現在ある農耕地から更に多くの収穫を搾り出すことも出来ます。
2030年頃にはこの惑星の人口が倍増すると言う見通しの中、土地に対するこのような高度の依存は更に高まるばかりです。
土壌流失とミネラル分の枯渇が土地を疲弊させるでしょう。熱帯降雨林のような土地も耕作しなければならなくなるでしょう。
肥料,殺虫剤,除草剤の使用が、地球規模で増大するでしょう。
モンサント社では、今、食糧バイオテクノロジーこそが進むべき道だと確信しています。』
(巨大企業モンサント社が160万ドルをかけたヨーロッパ向けの広告から)
果たしてそうか・・・!
ヴァンダナ・シヴァの主張
『食物はあらゆる生物にとって必要なものである。だからこそ「ウパニシャット(バラモン教の教典)」は「影響の及ぶ範囲にいるあらゆる生き物を養いなさい」と人間に呼びかけている。
工業化された農業がより多くの食物を生産したことはない。工業化された農業は様々な食料源を破壊してきたし、特定の商品をより多く市場に運ぶために他の生物から食物を盗み、その過程で莫大な量の化石燃料,水,有害化学物質を使用してきた。
現代的な工業化された農業での緑の革命のいわゆる奇跡の品種なるものは、収量がより大きいから飢饉を抑止しているとは、よく言われることだ。
ところがこの、より大きな収量なるものは農地における作物の全収量と言う文脈の中では消えうせてしまう代物である。
緑の革命の品種は光合成生産物を茎に回さないことでより多くの穀粒を生産する。このような「分配」は作物が矮性化することで達成され、またこの矮性と言う特徴がより多くの化学肥料に耐えることを可能にしたのである。
ところが、茎が少なくなることは家畜用の飼料が減り、土壌を作り甦らせる何百万もの土壌生物を養う土壌有機物質が減るということを意味している。従って、麦やトウモロコシの高い収量は、家畜や土壌生物から食物を盗むことによって達成されると言うことになる。
家畜やミミズは食糧生産における私達のパートナーなのだから、彼らから食料を盗むことは、長期にわたる食糧生産の維持を不可能にすることであり、部分的な収量増大は持続可能ではないと言うことになる。
工業化された農業のもとでの小麦とトウモロコシの収量の増大は、小規模農地が与えてくれる他の食物の収量を犠牲にして達成されるものである。豆類や豆野菜類,果物類,野菜類は、農地からも収量の統計からも姿を消した。
二,三種類の商品穀物については国内,国際市場への出荷量が増加したものの、第三世界の農家の家族の口に入る食物は減ってしまった。
工業化された作物の収量の増大は、従って他の生物種と第三世界の貧しい農民から食物を盗むことに基づいている。
このことが、より多くの穀物が生産されて地球規模で取引されればされるほど、第三世界で更に多くの人々が飢えることの理由である。地球規模の市場で取引される商品が増えているのは、自然や貧しい人々から食糧が盗まれてきたからなのだ。』

『今日,山(畑のこと)に行きたいんだけど、木偶さん,いますか・・・?』
亮介からはある日のある朝,こんな風に突然電話がかかってくる。
私は、『ああ,いるよ。畑にはいくらでも仕事があるし、山登りの下見もしたいし,一緒にやろうか・・』と答える。
彼の家は隣の市で車で1時間くらいかかるが近くに祖父母の家があり、彼がそこまで自転車で来るか、出勤途中の父親の車で来ているのを私が迎えに行く。
実際には細かい仕事があるのだが、彼から連絡があった時はすべて後回しにするか、一緒に連れだって行動する。

自分からコンタクトして来た時の亮介は溌剌としてエネルギッシュに動くので力仕事で男手が欲しい時には助かる。しかし畑仕事と言うのは単調で根気のいる仕事が大半なのでそう言う作業はやめにして山歩きにつき合わせることの方が多かった。
そんな日が2日,3日と続くこともあったが、そう言うことは稀で多くの場合は1日限りである。
『昨日あすこまでやったから今日はここまで行けるかも知れない』と思って連絡を待っていてもかかって来ない。今日の亮介は必ずしも昨日の続きの亮介ではないのだ。

最初はそれが分からず、こちらからコンタクトを取ると、前日の様子からは想像もできない重く沈んだ声が返って来る。その声を聞いた瞬間,『ああそうか,来る気があればとっくに電話があったはずだ』と気づく。同時に前日が『ハイ』だったことにも思い至る。
何も言ってこないことがすでにシグナルなのだ。多くの不登校の子ども達は親や周りの期待に応えられない自分を誰よりも不甲斐ないと思い責めている。そう言う時にこちらから誘いをかけると『応えられない自分』をますます責めて追い込むことになる。
なのでこちらからコンタクトを取ることはやめにした。私に出来ることは彼の心が動くのをただ待つこと,そして動いた時に寄り添うことだけである。
日常の彼と私の1対1の行動に関してはそうであるが、登山やキャンプ,釣り,旅行等の行事の時には積極的に誘う。チラシを渡して内容を説明し、その企画がいかに楽しいかを話して『君にぜひとも参加して欲しい』と言うこちらの願いを伝える。
亮介はそれに参加できたらどんなにいいかということを分かっているので『いいですネ。行きたいです』と答える。
何日かたって、その行事の1週間か10日前くらいに打診して『参加できるなら前の日までには知らせてよ』と言うが、予約確認はギリギリまでしない。
3日前くらいになって最後の打診をする。パッと返事が返ってこない時は、それ以上追い詰めないようにそこで打ち切る。

亮介は『約束』することに慎重である。私と2人だけの時と違って、不特定多数の参加が予想される行事に対してはとりわけ慎重だった。それは『約束した通りの自分』のままでその日を迎えられるかどうかに自信がないからである。それは優柔不断なのではなく、彼の自分自身と相手に対する誠実さからだと言うことに後で気づく。
行事と言っても宿泊を伴うような行事はそう度々できるわけはなく、普段は日帰りの登山や木工教室等,『来れたらおいでよ』と言う程度の誘いで気軽に参加できる行事が主である。そう言う行事への亮介の参加が少しづつ増えて行った。

小学生ばかりの参加者の中で、中学年令の亮介が私の助手的な存在になったのは私の意図であると同時に自然の流れでもあり、彼は次第に兄貴分として頼られるようになる。 彼もまた,もつれ合って遊ぶということはなかったが、着かず離れず、一番いい距離をもって他の子ども達と接するようになって行った。

こうして2005年春,亮介を頭に6人の子ども達が各駅停車で広島に向かうこととなる。

後に本人から聞いたところによると、近所に住んでいるオーストラリアの人がホームステイを募っていると言う情報を得た亮介は、すでに締め切りが終わっているにもかかわらずその人を訪ねてかなり強引にステイを頼み込んでOKをもらったと言う。一連のことを彼は誰にも頼らず1人でやったらしい。
海外に興味を持ったのは、その年の1月に母親がロンドンに行く用事があって、その時にくっついて行ったのがきっかけらしかったが、自分の知らない土地,知らない人の中に自分の新天地を求めたのかも知れない。

その後,亮介は海外留学を考えるようになり、翌2005年,中学卒業年令に達した時点で語学留学の準備を始めてその年の9月にカナダへ旅立って行った。
語学留学は留学するに足りる英語の力をつけるための予備留学と言うようなもので、半年後に認められて2006年から正式に留学生となり、現在に至っている。

亮介と関わったのは、彼がカナダに旅立つ前のほんのわずかな隙間のような時間でしかない。それもこちらからの働きかけによるのではなく、彼の心が動いた時にだけである。 続
今年ツグミがいつもの年より多い気がする。走っていると道の端っこ辺りから突然飛び立って車と並走(翔?)するということがあって、時に車が追いつきそうになりブレーキを踏むこともしばしばある・・,と思っていた矢先,やってしまった。
普通は同じ方向に飛びたつので何とかかわせるが、なぜか反対側からこっちに向けて飛び込んできた。ゆっくり走っていたので思いっ切り左に避けたが、うまくすり抜けたか,あるいは接触したか・・。衝撃は無かったので当たったとしてもかすった程度かも・・,と慌ててルームミラーを見ると路上でバタついている姿がチラリと見えた・・。
瞬時に絶命したのならともかく、苦しんでいるのを見捨てたことが3日経っても頭から離れない。後続の車に轢かれて紙のようにペラペラになることだけでも防ぐことは出来たのに,と慙愧に耐えないが、こう言う場面でこそ,人間の本性が暴かれているのかもしれないと思う。もはや遅し!
山に 空に パワー全開! 2004年3月21日
亮介が初めて農園に来たのは2003年,中学1年生の秋だった。翌年の春から矢の沢の山林・桑畑に来てニセアカシアの木を切ったり、桑の根っこを掘ったりして手伝ってくれるようになった。

切り倒したニセアカシアは一定の長さに切り、また枝を細かく切り落とすなどの処理をして斜面の一画に積み上げる。その時、積み上げた枝が崩れないように前面(下側)に杭を打ち込み、また積み上げた枝を隙間なくびっしりと押さえるために上に乗って揺さぶりながら踏みつける。この一連の作業を彼はてきぱきとこなした。何と言っても体格がよくてパワフルなので仕事がどんどん進む。
2月には押野山から継子落としまでのハイキングコースの調査を手伝ってくれた。長峰山や東山一帯の目につく山を全部歩いてみたいと言って、道があるとも思えない山々の地図を調べたりしているようだった。

山道を歩きながら色んなことを話す。彼は甲府に知り合いがあってそこまで野宿しながら歩いて行きたいと言う。行動力があるので本当にやってしまいそうで、その時はつき合って一緒に歩こうと思っていた。
彼は3日くらいで行けると思っているようだが、高速道路で約100kmの松本〜甲府間を3日で歩くことは不可能で、具体的に計画を立てているようには見えなかった。しかし彼には後先の細かいことを考えずにポンと飛び出してしまいそうなパワーと危なっかしさがあった。
そう言う子どもが嫌いでない私は、自分自身が学生時代に自転車で中部〜東北を一周したことなどを話してけしかけた。

その前に、春休みに各駅停車で広島まで行こうと言っていたのだが、突然『3月14日にオーストラリアに行くのでしばらく休みます』というメ−ルを残してオーストラリアへ飛んで行ってしまい、広島行きはまたの機会にということになってしまった。
出発の前日,『明日出発なので行ってきます。一緒に行けなくてすみません。また計画しましょう。ロッキ−山脈でも登る計画を立てましょう』というメールが届いた。彼の夢は壮大で、世界中をかけめぐっているらしい。

残された私はすでに広島での登山計画をつくって広島の仲間に呼びかけていたので1人で行くしかなかった。
今カナダに留学している亮介はこんな子どもだった。
カメラがない・・!

夜の食事は食担の小形が用意してくれていたので持ってきたものは無駄になったが、味噌汁だけつくってそれにイワナのぶつ切りをぶち込んだ。尾数が人数に足りない時や焼くことができない時にはこうやって味噌で生臭さを消す。
沢に下りてイワナを処理している時、パラパラッと雨が降り出して、小形と中本が戸外のテ−ブルに広げていた食事を自炊部屋に運んでいる間、テーブル周辺が無人になった時間があった。
その前にスナップを1枚撮ってカメラをそこにそのまま置いて沢にいった。全部の荷物を自炊部屋に運びこんだ中にカメラがなかったことに気づかず、翌朝出発前までカメラのことは忘れていた。
気づいて慌てて小屋の人に何度も探してもらったが出てこなかった。愛用のカメラだったのでがっかりして、そこから先の行動がどうでもよくなってしまった。山を下りてから、私には大事な撮影目的があった。カメラがなくてはそこに行く意味がなくなるのだ。

取り戻せない緊張感
8月9日(月)
山小屋でなければ起こり得ない失敗であったが、他にもいくつか失敗をした。小屋泊まりとは関係のないものもあって、それは自分にとってかなり深刻な問題だった。まず、朝になってサングラスを忘れたことに気づいた。場所は昨日の最後の水場だろうと思われた。
三河の3人は予定を変更して太郎平に登り返し、薬師岳に写真を撮りにいくと言って発って行った。出がけにサングラスのことを聞いてみると1人が『見た』と言った。もしあったら車の上に置いておいてもらうことを頼んだが、ほかにも似たような失敗をした。
これらは決して小さなことではなく、登山では重大な問題になりかねない。まして組織を引っ張って行く上では『ミスをしない』と言うことが信頼を得る上で決定的に重要な条件になるのだから、ミスの内容ではなくミスすることそれ自体が問題なのだ。

自分は元来そそっかしくて注意力散漫で早合点をするタイプだ。まあ人に気づかれる前に自分で気がついて何とか辻褄を合わせてごまかしてきたのだが、冒険クラブを運営している時は決してこんなミスはしなかった。
どんな小さなミスも取り返しのつかない結果を招きかねないのが登山であるから念には念を入れ「そこまでするか・・・」と言うところまで緻密に,周到に準備して、万事遺漏のないようにしてことを進めたし、終わってからも全員にチェックを入れた。それはほぼ完璧に近かったから保護者からの信頼を得ることができていたし、実際10年間,かなりハ−ドな内容の活動を無事故で続けられてきたと思っている。
注意力散漫でそそっかしい性格も『一度事故を起こしたらおしまい』という強い緊張感の中で制御してきた。それゆえ自分は、登山という行為に必要欠くべかざるこれらの資質は『完全に私の身についた』,『そそっかしく注意力散漫で早合点な性格は克服した』と思い込んでいた。

10年間の空白で大ボケはぶり返し、前よりひどくなっている自分に気づけば落ち込むなと言われても落ち込む。技術的なことや気力や体力の衰えよりもこのほうが厄介なのだ。
問題は立場の違い〜企画して取り組んで引っ張っていく立場と、ただついていくだけの立場の違い〜かもしれない。復帰を試みてはいるが、まだそこまでの立場になれていない。
自分にとって『復帰』とは、ただ単に登山を再会することではなく、子ども達や親達と一緒に登山やキャンプや沢遊び等の冒険をすること,即ち冒険学校を再建することだ。
今はまだその見通しもなく覚悟もできていない。もう一度あの緊張感に満ちた立場に戻るために何をしなければならないか・・,もう少し時間がかかるかもしれないが、少なくとも照準を合わせるところまでは戻れた気がして意を新たにしている。 終わり ※以下,赤木沢遡行記録に続く 1999,8,9
釣り人多数

すぐに小形,中本を探したが見つからず、小屋の受付けで調べてもらうと小形の名で予約してあり、私が着いたら3人になることまで申し込んであった。まずい展開である。小屋に泊まる気はなかった。しかし、一帯は野営禁止区域である。それを無視するかどうかはモラルの問題になる。
予約された部屋を覗いてみたが2人の姿はない。どっちに釣りに行ったのだろう。3つの方向がある。一つは薬師沢の上り,一つは本流の下り,今一つは本流の上り。このうち本流の上りは明日の赤木沢の遡行と途中までダブルので多分ない。小形が薬師沢で中本が本流の下りだろう。

合流点にはかなりの竿が入っていたが、釣れているようには見えなかった。まずここでこの時間に釣るのは難しいだろう。小屋にはOさん達や町田の2人,釣り目当ての中年等が次々と着いて宿泊を予約し、あちこちでビ−ルを手にして乾杯の声が上がっていた。
なかなか帰ってこないので荷を置いて本流の上流側を探りに行ったが、やはり場荒れしていて反応がなく、すぐに戻ると中本がいて、ほどなく小形も上がってきた。小形は午前中2尾でサイズは20cm。午後は釣果なく、中本は帰って寝ていたのだそうだ。
その日のうちに本流を赤木沢の出合い付近まで遡行するには時間が下がり過ぎていた。すぐに暗くなる。それに野営禁止の問題がクリア−できていないので小屋に泊まることにした。

野営禁止と沢屋のモラル
禁止区域だから野営はできない。けれど、はじめから沢登りを目指している者にとって、この野営禁止は非常に困る。沢に泊まってこその沢登りである。
例えば上の廊下から奥の廊下・最源流部を目指して遡行してきた者が、薬師沢付近でだけわざわざ沢から離れて小屋に泊まるのだろうか・・。そんなことをしていたら沢登りの純粋性は失われてしまうし、雰囲気も壊れてしまうではないか・・。その場合,自分だったら「モラル」とけんかすることもなく、従って罪悪感もなく沢歩きを継続すると思う。
けれど太郎平から下りて来れば「野営禁止」の立看板はいやでも目に入る。これを無視するにはちょっと度胸がいる。度胸だけでなく、敢えて野営するための『沢登りとはそも何たるか』と言う「ウンチク(屁理屈)」もいる。
本流から遡行してきたのならともかく、途中から入って、いいとこだけねらいの私には、何のためらいもなく入渓・幕営できるだけの度胸も屁理屈もないのだ。だからそのまま入ると後味の悪さが残る。けれど、沢の中に泊まらなければ楽しさは絶対に半減すると思う。それは確かだ。

山小屋がきらいだ。素泊りで5200円の金額のことよりも、自分達の空間がないのがいやなのだ。暑くて寝苦しいし人に気を遣わなくてはならない。同宿者との交流には楽しいものがあるが、やはり誰にも気兼ねなく山の雰囲気を味わいたい。山に来て布団で寝ると言うことにも違和感がある。
最後に山小屋に泊まったの88年の鳥海山だったと思う。夕食前後の一時を私達はなごやかに交流したが、翌朝起きてみると事態は一変していて、私の顔に周囲の白い目線が突き刺さってきた。
『仕方がないではないか,早く寝た方が勝ちなのだ』とは開き直れない。以来山小屋には泊まらないことにした。そんな思いをするよりテントで一人のうのうと寝る方がいい。
・・!? ヤマメ?

適当に食べて13:10発,水が欲しかったので急ぐ。枯れ沢が1本,水が止まっているのでやめて急な坂を一気に下り、13:43に沢に着く。やっと喉を潤すことができて生き返る。
この沢が意外と大きく、また2つの沢が合流していたので毛針を振ってみると一発で20cm強のイワナが飛びついてきた。もう1度振ると同じサイズのイワナがまた来た。2振り2尾である。もっとも2尾目は向こうが勝手に飛びついてきたもので釣ったというより釣れたというべきだろう。
リリースかキープか迷うサイズだが、黒部の源流域のイワナは小ぶりなのであまり大物は望めないと考えてキ−プする。ちょっとかわいそうだったか・・。
問題は3尾目である。出方が全然違っていた。電光石火、ガバッと水を割って飛び上がり、頭を中心にくるりと反転して水中へ・・,アドレナリンがどっと出る。その間まばたき1つ分,いや瞬くひまはなかった。合わせたが遅かった。けれど毛針には触らなかった。様子を見にきただけ だ。
『もう一度来る!』と思った。 来た! アドレナリン分泌! 合わない。針にも触らない。やはり様子見だった。イワナのライズではない。魚体も幾分白かった。あきらかにヤマメである。それっきり出てこなかった。
黒部の源流にヤマメがいるとは思っていなかった。イワナなら確実に釣れていたはずだが、ヤマメなら私に釣れる率は10に0か1である。それにしてもヤマメとは・・。

釣ったイワナの腹を開けて胃の内容物を調べると小さな甲虫と川虫が主だった。餌も小さいから大きくなりようがないのだろう。細々と生きているのでろうと思えばあれば釣るに忍びなく、急速に釣意を失って納竿する。

後からOさん達と、釣竿を持った2人連れの中年が来て少し話し込んでいるうちに町田の夫婦が先に行く。14:50,二人を追いかけるように出る。ほとんど平坦な下り。やがて木道のある湿原に出る。
ウメバチソウの少し緑色を帯びた清楚な白,イワウチワ,アケボノソウ,タムラソウ,タテヤマリンドウ.ミヤマリンドウ・・。リンドウの紫がものすごく濃い。タムラソウも同様に紫が濃い。ミヤマホタルイ,コバイケイソウ(実),タカネニガナ。モミジカラマツはキンポウゲと同じコンペイトウのような実をつけていた。

先行した二人は夫人の方は元気だが、男性の方が『バテてフラフラ』だそうでベンチで休んでいる。本当にふらつきそうになりながら座り込むのが見えた。
15:35から水場で休み、モチ1個と練り物のテンプラ1枚を食べて10分後出発。若干の登り下り,と言うより木の根っ子や階段を乗り越えながらゆっくり高度を下げる。
やがて薬師沢の水音に混じって発電機のポンポンと言う音が聞こえ始め、その音が大きくなったと思う頃、眼下に小屋の屋根が現れ、薬師沢小屋に着く(16:21)。
元気な若者達

10:05発。そこからは広々としたゆるやかな登りとなる。下から元気のいい歌声が聞こえてくる。小学校6年生くらいと中学生と思われるの女の子とその両親の4人づれで、下の子は会う人すべてに『こんにちは〜』と大きな声をかけ、大声で歌っていた。姉と両親もいっしょに歌っている。おそろしく元気な明るい家族である。
私の知らない歌ばかりなので尋ねると、夏休みのはじめのサマ−キャンプで習ったばかりの歌で、全部オリジナル,登山の間に覚えるのだと言う。

下の子がリ−ドして他の3人がついて歌う。ついついその家族に引きずられてペ−スが狂ってしまったが楽しかった。もう少しつき合って歌の一つくらい覚えたかったが、先が気になった。
道が木の枠の中に石を並べた石畳になる。歩き易いと言えば言えるかもしれないがこの手の道は苦手だ。
11:00,「折立から6.0km・太郎平へ2.0km」の標識を通過。2分後にベンチのある休憩所に着く。ゲ−トで知り合った三河ナンバ−の3人連れパ−ティ−に追い着き、行動食を腹に入れる。入善のFマ−トで買った餅がおいしくて食べやすかった。

昨夜この道を夜通しで歩いて今朝早く黒部五郎に登り、今下山途中だという人が話しかけてきて沢と釣りの話になる。赤木沢や黒部源流の沢と谷,イワナのこと等、地元の人ならでの情報を仕入れる。金木戸沢の情報も得た。
金木戸沢に興味があったので赤木沢の後,入り口まで行ってみるつもりでいたが、支流の蓮華谷左俣について得た情報によるとゴルジュは6m以内で、泳いで越えた後ザイルに結んだザックを引っ張るという泳ぎか少なくとも8ケ所はあると言う。水量の多いきつい沢と言う点は予想通りでシュラフなし,テントなしのビバ−グ,ザイルは8mmを20m。火器,食糧等,最小限の装備での強行軍を強いられるようだ。のんびり釣りを楽しむ沢ではないことが分かった。
草原の風
11:38発。話しこんで大幅に遅れたので先を急ぐ。いつしか森林限界を越えていた。
2196mの独標を過ぎて左前方に薬師岳がその全貌を現すと、右手のゆるやかなモスグリ−ンのカ−ペットの広がりの向こうに太郎小屋が見えて来る。萌黄色に見えていたのはキンコウカの花で、それが一面にびっしりと咲いて絨たんのように見えたものだった。
タテヤマリンドウが盛期を迎え、コバイケイソウ,イワイチョウ,ニッコウキスゲの花はすでに終わって早くもアキノキリンソウが咲いていた。チングルマの綿毛が草原の風に揺れて、山はのどかな昼の時を迎える。
陽射しは強いが風は冷たい。どんなに優れたF分の1ゆらぎのフラクタルな風も、この風の心地好さにはおよばない。人の手でつくりだすことはできない涼しさに浸る。
12:20,太郎小屋に着く。三河のOさん達が迎えてくれた。ポリタンクに水を入れるのを忘れ、愛用のひょうたんバッグも忘れてほとんど水なしで登ってきたのでやむなくジュースを一つ買う。Oさん達に南木曾から大平宿に入る道,大平から飯田に抜ける道,飯田から新城・三ケ日に至る道(R153)を教わる。

8:22発。もっと上の方で会うことを予想していたので予定外の休憩となり、その遅れを取り戻そうと急ぐ。8:50,休んでいるFさん達を追い越す。一帯はブナ林にクロベとダケカンバが混じり、高度が上がるに連れてオオシラビソがそれに替わるようになる。
9:10「折立から50分・三角点へ30分」の標識の先で高校生とお母さんの親子連れと2組の夫婦を追い越す。そのうちの1組がついてきた。ペ−スメ−カ−になるのが嫌なので先を譲る。その後を大きめの荷を背負った単独の若者が大粒の汗をぼたぼた落としながら登ってきたのでこれも先を譲る。 9:25,1870mの三角点を休まず通過。道を譲った夫婦と青年が休んでいた。

三角点を通り過ぎながら左手・立山方面を見ると、弥陀ケ原の上に大日岳から始まって剣,立山,薬師(裏側)へと続く山並みがせりあがって来て、いきなり、北アルプスの大展望の中に飛び込んだという感じにさせられる。4年前は厚いガスに覆われて山は見えなかった。それ以前からというともう20年になるだろか・・。

’06・雲の平行

出会い
ある年、大汝山で行き暮れて本来は泊まることのできないその小屋に泊めてもらったことがあった。自分は別山小屋まで行くつもりだったが、たまたま道連れになった岩国から来たという単独の女性の足取りが危なっかしい様子だったので、泊めてもらうように頼み込んだら『ついでに泊まっていけ』となったのだ。
あるじは『朝の大汝山からの展望に勝るものはない。せっかく泊まったのだから早く起きて見にいけ』と言ってくれた。小屋主の言葉通りの素晴らしい展望に声も出なかった思い出がある。
その日は原爆記念日だった。8月6日のその時間にはどこにいても黙祷をするのが常で、山でもそうしていたので8時15分のその時間に断ってラジオを入れ、黙祷させてもらった。
遠北(あぢきた)さんと言う名の主人は、私が帽子につけていた原水爆禁止世界大会のバッジに目をつけ、自分の持っているバッジと交換してくれないか,と言った。

私が快く応じると『梁場駅の近くで民宿をやっているのでぜひ寄ってくれ』と言い、翌々年尋ねて行くと今度は『剣沢から降りてくることがあったら仙人小屋に寄ってくれ』と言った。その仙人小屋にも後年,剣沢から下の廊下に下る途中に泊まって“光り苔”を見せてもらった。それが最後の立山連峰である。
その後しばらくは東北や南アルプスが多く、北アルプスからは遠ざかっていたが、こんな風だったんだなぁ,と改めて思い返す。その広がりと大きさには北アルプスならではのものがある。

有峰湖方面
山に戻って来た!

雲一つなく行く手太郎平方面もすっきりと晴れ上がり、天気は安定していると思われた。三角点は絶好の展望台だが、早く樹林帯を抜けたいのでもう一つ上のピークまで休まず行くことにする。
オオシラビソとダケカンバの樹林帯と草原が交互に現れる中、10分ほど(9:30)でピ−クに着いたが、期待に反して展望が利かないそのピークを飛ばして、その先の鞍部で休むはめになる(9:45)。勘の働きが悪い。
雲が少し上がり始めていた。右手の白山方面も晴れてはいるが、白山自体は雲で隠して顔を見せない。
目の前やや左手の薬師岳西部の斜面の緑は一色ではなく、萌黄色から芝を思わせる濃い緑まで変化に富んでのびやかに広がっている。それはかつて幾度となく目にした景観であり、山は少しも変わっていないのだが、その変わらないことに新鮮さを感じることが山との隔たりを物語っていると言える。
それはあらゆる緊張と束縛から精神と肉体を解き放つ作用をもって私を迎えてくれていた。雲の上にこんな世界があったことを長い間忘れていたように思う。
もう何年も職さがしを続けているが、思うような仕事は見つからず、いらつき疲れる日々,あらゆるものが目まぐるしく変化し、自分が自分であることを確かめられなくて、本当に生きているのだろうかといぶかしく思う日々である。
悠久の存在として山が変わらずそこにあること,その存在の確かさがどれ程大切なものであり、どれほどそれを求めていたことであるか・・,と気づく。
どんなに生活に追われていても山から離れてはいけなかった。精神の解放と充実がなければ生きていても本当の生ではないのだということを、ようやく思い出している。
1999,8,8

写真はすべて’06年8月の雲の平行のもの。順不同

列車が遅れてる!
多気からは快速電車でさすがに速い。だが、弥富の駅で列車の遅れに気づく。蟹江で2分の遅れ。終点の名古屋を目の前にして赤信号で突然停車。ジリジリと時間が経過し、9分ある名古屋駅での乗り換え時間が3分を切った。
信号が青になってからホームに入るまでの時間の長さ,スピードののろさに一時は諦めかけたが、残り1分を10番から7番まで走って階段を駆け上がり滑り込む。予定通り帰れそうだ。

中津川で最後の列車に乗り換える。
一昨日辺りから『会いたい! 会いたい!』を連発していた2人,お父さん,お母さんのお出迎えに満面の笑み。
長旅,お疲れさま。今夜は美味しいものをいっぱいご馳走してもらおう!
2日間で27時間の帰路,往路を合わせると40時間におよぶ乗車時間は小学生にとってはちょっと無理があったかもしれない。
特に帰路の紀勢本線,和歌山から多気までの区間は長く、特急でも新宮乗り換えで併せて5時間かかる距離を普通列車で9時間あまりかけて走ったのだから、子ども達は退屈したに違いない。
それでも兄妹は最初から最後まで仲良く、ある時は先頭車両に立って移り変わる景色を眺め、ある時は座席でもつれ合ってはしゃぎ、本を読み、パズルに集中し、ある時はぐっすりと眠って長い電車旅を耐えた。

時には静かな車内では兄妹のはしゃぐ声が際立ってハラハラさせられ、時には車掌さんがすっ飛んで来たり(写真)して、ひんしゅくを買ったであろう場面もあるが、一方でそういう子ども達の動きをニコニコしながら見つめてくれるお年寄りもいるものだ。
旅の終わりに

最後の電車は中央西線。中津川からの列車は時間帯からいつも利用客が少なめで混むことがなく、最後のこの列車に乗って初めて帰って来たと言う安堵感に浸ることができる。
※以下,写真は05年のもの
前年の同じこの電車でのこと・・。中津川発18:03の最後の電車に乗り込んで席を探す子ども達を目ざとく見つけて席を移動し、4人掛けの席を譲ってくれた人がいてゆったり座って帰ることができた。
50年間,この線を通っていると言う初老のその乗客は、初めての客か常連かがひと目で分かると言う。
同じ電車に今年も優しい目のお年寄りがいた。

子どもをめぐる不穏な事態が続発する昨今,大人の声かけに対して子ども達の顔に一瞬のためらいがよぎり、目で私の判断を仰ぐのが分かる。
たくさんの人々の善意や親切に支えられた旅である。旅先での人様の親切は有り難く快く受けさせたい。
『人を見たら悪魔と思え』と教えなくてはならない時代,『可愛い子には旅をさせよ』の言葉は遠い昔の夢物語になってしまったように見える。
しかしだからこそ、この世は圧倒的多数の人々の思いやりや善意,勇気や愛,そして平和に生きる喜びや希望で成り立っているし、それを必要としていると言う事を身を持って感じて欲しいと思う。
勇気を持って子ども達を私に託し、体験の旅に送り出して下さったご家族の勇気に敬意をはらいまた感謝して、来年もまたどこかへ出かけようと思う。
3月28日・4時半起き

4時半起床。2人ともすでに起きていた。パッキングは昨夜のうちに完了。朝食も昨夜のチラシ寿司の残りで簡単にすませる。
宿舎を提供して下さったTさんが車で送って途中まで同行して下さることになり、駐車場の関係で廿日市駅に変更。
五日市駅に6:00までに着き、同15分発の電車に乗るところを6:00発にお電車と思い込んでいて早く出すぎてしまったので、1本早い電車で広島まで行き、岡山行きを待つ。広島発6:37。

岡山着9:24。同33発,瀬戸大橋線に乗り換えて瀬戸内海を53分で渡り、四国高松に10:26着。高松発10:50の高徳線で徳島に向かう。

紀伊水道は大きい。太平洋側を見ると四国の阿南市方面の陸地が見えるだけで紀伊半島方面の陸地は見えず、ただ大海原広がるだけ。内海側,淡路島方面は霞んでいてよく見えなかった。

南海フェリーの客室はゆったり広く、横になって休むことができ、船内には簡単な娯楽施設や売店もあって、数えられるほどの客が思い思いに船旅を楽しんでいる。手足を伸ばして1時間あまり眠る。
『和歌山』の駅が3つ
5分遅れで16:10に和歌山港着。この5分の遅れにもやきもきさせられた。和歌山港から和歌山駅までのアクセスはちょっとややこしい。まず動く歩道のある長い通路を歩いて南海電鉄和歌山港駅に行き、ここから16:23の南海鉄道・難波行き特急で和歌山市駅(16:28着)へ。JRに乗り換えて16:32発の電車で和歌山駅着16:38となり、和歌山駅発17:18の電車に乗って紀伊田辺に向かう。
『和歌山港駅』『和歌山市駅』『和歌山駅』と、『和歌山』のつく3つの駅があることを把握してないと絶対に間違う。

6週目を終えたAさんの体重の記録。先々週・13日の遅い夕食の後,ゆっくり下降して18日にはグリーンゾーンに達したが、翌日の昼に外食があってその後横ばいを続けている。本人は16日までの下降に気をよくしていたので、その後の推移が不満らしいが、この程度の凸凹は流れの範囲であって、しばらくは横ばい状態が続くかもしれないが問題にするほどのことではない。

B(木偶)は乱調の1週間だった。きっかけは17日の雪の街道・峠越えの日,昼前にお仙茶屋で予定外の握り飯を1個食べ、昼食を食べずに最終地まで歩いてそこで弁当を食べたことだ。弁当は通常の昼食より多めで、それを歩き終わった後の遅い時間に全部食べたので、夜は殆ど食べなかったのにもかかわらずその後下がらず、それ以後先週より上のレベルで横ばい状態が続いている。
きっかけはそうだが、実は前の週に調子よく下がるものだからつい欲が出て少々無理をしたきらいがある。後で気づくことだが、これはそのリバウンドかもしれない。
先週だけでなく、過去5週間連続で右肩下がりを続けていたので起こりうることだ。そこだけ見れば駆け足で階段を登っているように見えるが、全体で見れば中休みに過ぎないと思うことにする。
しばらくは横ばいが続きそうだが一喜一憂せずだ・・!
3月27日(火)。

(06年)
6:30に正君が起きてきたのでさっそく朝食の用意を始める。2人が決めたメニューはサンドイッチ。トースターでパンを焼き、マーガリンをぬってハムと卵焼き,キュウリを乗せ、さらにレタスを乗せてはさむ。雪さんも加わり、ここまでは2人とも自分でやる。他に焼き魚(鮭)と目玉焼き,味噌汁。
食べながら今日の行動を決める。と言うか、すでに宮島水族館と決まっているらしい。
2人の食事は黙っていると2時間くらいかかるのが分かっていたので早めに起きてもらったのだが、やっぱり9時過ぎまでかかった。
小雨もよう

朝から肌寒く今にも振り出しそうな空もよう。次男が休暇をとって夫婦で一日つき合ってくれることになった。
彼の目当ては、北海道出身のヨメさんと一緒に潮干狩りをすることにあるらしく、貝掘りの道具だけでなく、あわよくばと穴シャコ釣りの絵筆まで用意していた。

(06年)
水族館へ
潮が引いていれば大鳥居の下を歩いて向こうに渡ることが出来るが、まだ引き潮の途中らしい。なので少しだけ現れた浜を歩いて、子どもたちは真っすぐ水族館へ! つられて十?年ぶりに入ってみた

前回入館したのはたしか93年の七尾中学校での修学旅行(京都)に向けた班別自主行動の実験をやった時だったかナ・・・?
その時は仕事でひと廻りチェックしただけなのでろくに見ていないが、なかなか見応えがあった。春休みなので子ども達が多いが、世界遺産のせいか外国人の客も多い。

子ども達は前後3回行なわれるアシカショーを全部見たかったらしいが、1回目はすでに終わっていたので2回目を見終わって、さらに2時間後の3回目を見るのだと言う。この子ども達の旺盛な好奇心とエネルギーに敵うおとなはいない。羨ましい限りであるが退散!
浜が気になる。
潮干狩りは不発〜アサリが美味しい季節だが・・,

潮は引いていなかった・・・!? いや一旦引いてもう満ち始めていたのかも知れないが、水族館の中から見る限りではそんな様子はなかった。
干潮は1時すぎだったらしいが引きが小さくて本来の遠浅の浜が全然姿を見せず、雨と寒さのせいもあって貝掘りに繰り出す人の流れも起こらず、しばらく様子を見る間に波はゆっくりと戻り始めた。

(写真は06年)
次男は北海道出身の嫁さんに潮干狩りを体験させたかったようだが、まったくいけない日にぶつかっってしまった。それでも未練たらしく手前のまだ潮が来ていない砂浜を掘って見たが何も収穫がなかく、代わりに護岸の石垣の牡蠣の中にアオムシ(チョウセンゴカイ)がいるのを見つけた。これは私も知らなかったことでちょっと儲けものをした気がする。

(写真は06年)
獲れたてのアサリは最高だが今回は手に入らなかった。自然が相手であればこういうこともある。
松本辺りで送りのアサリを買ってもちっとも美味しくないが、瀬戸内のアサリはこれから美味しくなる。
潮干狩りは瀬戸内に住む者の特権だ。潮を選んでまた行くがいい。
夜はハゲ刺し,吸い物,チラシ寿司

夜はチラシ寿司。即席の寿司の素にアナゴ,エビ,イクラ,キヌサヤ,錦糸卵などを混ぜ込んだ簡単なもの。
生きのいいカワハギがあったので刺身と吸い物にする。箸がよくのびる。珍しく生のホタルイカをゲット。内臓を取り除いて洗って食す。内臓も食べたいと言うのでさすがにこれだけは茹でた。2人とも魚介類の食べ方がうまい。焼き魚も骨だけ残してきれいに食べるのはお母さんの日頃の躾の賜物か・・。
明日は4時半起き。いつでも出れるようにパッキングして早々に休む。

多国籍企業はいかにして第三世界を飢えさせているか〜と言う副題の『食糧テロリズム』(ヴァンダナ・シヴァ著,浦本昌紀監訳 竹内誠也・金井塚務訳)は衝撃的な書である。
『企業による食糧の支配と農業のグローバル化が、何百万人もの人々から生活と食糧を手に入れる権利をどのように奪いつつあるのか』という事を述べるに当たって、ヴァンダナ・シヴァはインドに焦点を絞る。
それは彼女がインド人であり、また『インドの農業が地球規模の企業から特に標的にされ』ているからだと,インドでは75%の人々が生活手段を農業から得ていて、世界の農民の実に4人に1人はインド人なのだ,それゆえ『インド農業に対するグローバル化の衝撃には地球規模の意義がある』のだと氏は言う。
森林を切り倒したり、自然林をマツやユーカリ等の単一種大面積栽培(モノカルチャー)の人工林に変えてパルプ工業の原料にしたりすることが、歳入や経済成長を生み出すと言う点はその通りであるが、しかし、この成長は森林から生物多様性と土壌や水を保持する能力とを奪い取る行為に基づいたものであり、森林に依存する人々の暮らしから、食物,飼料,燃料,繊維,医薬品,洪水や旱魃に対する安全保障の源泉を奪い取る行為に基づいている。
このパターンは林業だけでなく、農業とあらゆる食糧生産の場にも及んでいる。だが、多くの環境保護論者は、自然林を単一種大面積栽培の人工林に変えることは自然を痩せさせる行為だと言うことが理解出来ているのに、その洞察を工業化された農業についてまで推し進める人は多くない。
『工業化された農業はより多くの食糧を育て、飢えを減らすために必要だ』と言う企業神話がつくられ、殆どの環境保護論者や地域開発団体もそれを是認している。また多くの人々は、集約的,工業的な農業は資源を節約し、従って生物種を救うとも仮定している。
成長と言う幻想が、自然や貧しい人々からの収奪を隠蔽し、資源の欠乏を創り出しているにもかかわらず、それを成長と偽っているのだ,と。 続

黒部五郎岳(写真はすべて06年8月)
光学カメラで撮った写真を現像と同時にプリントすると、無料でネガをデジタル化してCDに焼いてもらえるサービスがあり、プリントと一緒に画像の入ったCDを受け取ってブログ等に使っている(いた)。
古いネガもCDに焼いてもらうことが出来るが、私が利用している某カメラ店では1本につき530円,1枚のCDに5本まで入るので満杯にすれば2650円かかり、決して安くはない。安くはないが、保存して思うように利用できると言う利便性故に可能な限りデジ化したいと思っている。
過去40年間に撮りためたネガは数百本に及ぶので、これを全部デジ化することは不可能であるしその必要もないが、貴重なフィルムはデジ化して保存・利用したいと思っている。 特に,広島時代の冒険クラブやハイキングクラブの活動の写真は出来れば全部デジ化して、今は社会人となって活躍している若者達が、子ども時代に生き生きと活動していた画像を本人達に渡したいと思っている。
そんな思いで少しづつデジ化することを始めた。同様に活動の記録についても、ワープロの文書をPCに取り込むことが出来たので、残っているものについては再編集したいと思っている。

デジタル化された(巨)大量の情報を『アーカイブ』と言うのだそうだ。個人が所有する情報等はいくら大量と言ってもたかが知れているし、公共性のない私的なものにすぎないので『アーカイブ』とは言えないだろうが、これから先デジタル化が進めば,個人としても相当量の情報を所有することになるのは明らかなのだから、これらを適切に表す表現があってもいいように思う。
さしあたって、自分の所有するデジタル情報については『ミニカイブ』とでも呼ぼうかと思っている次第。

太郎平方面
1999年8月,10年間の山どころではないその日暮しの日々からようやく抜け出して再び本格的に向きあう最初の山を有峰湖〜太郎山〜赤木沢と決め、広島時代の仲間達と薬師沢で出会うことになった。
※この赤木沢遡行記録とその前後の大平宿,木曽駒ケ岳登頂の一連の記事にも写真をつけたいところだが、この時はカメラを紛失して写真そのものがないので昨年(2006年)の雲の平登山の写真を使っている。

有峰湖〜薬師沢山行記録 1999年8月7(土)〜9(月)
広島・佐伯FHC(広島県勤労者山岳連盟)中本=CL,小形/西多摩山歩会 森田
8月7日(土)〜8日(日)
7日8:40,国分寺の自宅を出る。水上のK自動車に寄って新しい車を受け取り、日本海まわりで有峰湖・折立を目指すも20:00の閉門に間に合わず、神岡町に廻ってR471の駒止橋から東谷林道に入り、金木戸川沿いに有峰湖に向かう。途中で1時間40分の仮眠。
8日4:00に目覚め、同:54,ゲート着。先着の車が2台。後続車数台。6時の開門までにパッキング。6:00開門。40分で折立へ。快晴。大変な車の数で登山口のはるか手前に駐車する。
小形達は私の出発が丸1日早くなったことを知らない。着くのは今夜か明朝と思っている。だから夜通し歩いて彼等が薬師沢に降りる前に太郎平でつかまえようと思っていたが、その目論見がはずれた。日本海まわりでなく、松本からまっすぐ有峰湖に入るべきだった。
小形達と太郎平で合流することにこだわったのは、赤木沢で幕営するためである。おそらく彼等は荷物を薬師峠にデポして薬師小屋泊まりの軽装で薬師沢に降りるだろう。それでも予約は後まわしにして釣りに出ているかもしれない。そのわずかな望みに賭けてテントと炊事道具を持って行くことにする。
当然荷が大きくなるので渓流足袋で歩く。が、私が着いた時彼等は既に小屋を予約しており、思惑が裏目に出て結果的に余計な荷物を持って歩くはめになった。
7:45出発。前夜ゲ−ト前で一夜を明かしたと言う町田の若い夫婦,F夫妻も出るところだった。登山口の無料休憩所の横を通ってすぐに登山道に入る。
太郎平までは5時間の行程となっているが、4時間で着きたいと思ってはじめから飛ばす。
けれど始めはやはりきついので30分歩いたら荷物調整をしようと思っていた時、降りてくる一団を交わし、もう一つのパ−ティ−を待っていると、それが小形,中本と別れて先に降りてきた藤井,高橋の2人だった。時刻は8月8日8時8分の8並び。思ったより早く降りてきたのに驚く。
15分ほどそこで休んで近況報告と情報交換。話している間にFさん達はじめ、いくつかのパ−ティ−が追い越していく。
空白の10年間に復帰を試みて同じ仲間とこの道から雲の平に入り鏡平に抜けたことがある。その後,東北・朝日岳にも共に登ったりして本格的な復帰に備えてきた。
来年の夏,かつての冒険クラブをリメイクして信州のどこか,例えば白馬とか大平宿あたりで大集合する,と言う構想を話して協力を要請し、年内に広島でその打合せをすることを約して別れる。個人的には大平宿が最適だと思っており、この後、その下見に大平宿に行く予定である。 続
1999,8,8

写真はすべて’06年8月の雲の平行のもの。順不同

午後からは館内の見学,ガイドさんは自らの被爆体験を交えながら案内して下さった。『どうしても自分の感情が入ってしまう・・・,』と、気にしておられたが、熱のこもった説明でむしろその方が生々しく、貴重な体験談を伺うことが出来た。

今年は散々迷った末に広島行きを決めた。北海道や東北,あるいは熊野古道等,様々な場所やコースを検討し、昨日地震があった能登半島も候補の1つだった。
迷ったのは、呼びかけの対象がほとんど去年のメンバーの周辺に留まり、連続して同じコースを廻ることにためらいがあったからである。
ところが、今回参加した2人は『電車に乗るのが好きだからどこでもいい』と言い、『宮島の水族館』に行って、帰りに『お好み焼き』を食べたいから、広島でいいと言う。
加えて、知り合いの家屋を借りることが出来るという利点と、何よりも『ひろしま』へのこだわりから、今年のコースを決めた。

今年で3年連続の広島行きで、参加者は一昨年,7名,昨年は3名,今年は2名と数字だけ見ればじり貧であるが、それは問題ではない。
今回参加の2人にとっては昨年と同じ平和記念館の見学であるが、今ひとつ反応が弱かった昨年に比べると、今年は積極的に、熱心に見ていた。もし来年来ればまた違った反応を見せるかもしれない。
つまり、それは『ひろしま』は『一度見て』おけばいいところではないと言うことを示しているのかもしれない。
自分に引き換えてみても,去年は何気なく通り過ぎてそこあったことさえ印象になかった展示物の前で釘づけになり、何故気づかなかったのかと思うことが何度もあって、それは去年もそうだった。展示物が変わっていることがあるにしても、何十回と訪れている者にとっても見尽くせないものが、ここにはあるということなのだろう。

平和公園での学習を終えて今夜と明日の食材の買出しを済ませた後は、廿日市駅前の『味のサファイア』へ直行! 目当てはもちろんお好み焼き。全国あちこちにある『広島風〜』ではなく『広島』のお好み焼きそのもの。鉄板で熱々をフーフー言いながら食べるのが楽しみだったのだ。
メニューは、生エビ,生イカ,肉,卵,天カス,うどん入りのサファイ・アスペシャル。カウンターに陣取って2人で1枚分をきれいに平らげた後は、常連のおじさん,おばさん達と意気投合して談笑。すっかり人気者になった。

核の時計
2007年3月26日(月) ※昨年の旅の記録再掲
6:30起床。野菜たっぷりの味噌汁と目玉焼き,サケ,ナットウの朝食。2人の食事は相変わらずゆっくりでたっぷり1時間はかかる。
今日は平和記念館のボランティアガイドさんの案内で、公園の碑めぐりと記念館での学習に一日を費やす予定。車を借りて10時前に出発。
昨年,一緒に歩いてくれた知子お姉さんが今年も同行してくれることになり、1年ぶりに再会する。
写真は記念館の中にある核の時計。上の数字は1945年8月6日からの日数で、22512日目。下の数字は、直近の核実験が行われてからの日数で、昨年(2006年)の北朝鮮の核実験から168日目を表す。

嵐の中の母子像

公園の桜
平和公園の桜はほとんどが咲き始めたばかり。中に1本だけ3分咲きくらいの木があり、その花の下で車座になって弁当を広げている一団があった。
今日の広島は快晴。陽射しは暖かだが、なぜか信州のそれよりも風を冷たく感じる。

原爆ドームを背に

折鶴を折って・・。
折鶴を折ってブースに入れる。正晴君は4連の鶴を折り始めた。4連の折鶴は、1枚の紙に4分割するきり目を入れ、それを切り離さず真ん中でつながったままにしておいて、それぞれの四角い紙で鶴を折る。
時間がかかるのでゆっくり折ってもらうことにして先に出発点に帰る。ガイドして頂いた方とはここでお別れのあいさつ。

桜の下でお弁当
3分咲きの桜の木の下がちょうど空いたのでここで弁当を食べる。知子姉さんがおにぎりをいっぱいつくって持ってきてくれた。卵焼きも。感謝,感謝!
空がどこまでも青い!

鐘の中に入って衝くと音が聞こえない。
午後からは館内の見学,ガイドさんは自らの被爆体験を交えながら案内して下さった。『どうしても自分の感情が入ってしまう・・・,』と、気にしておられたが、熱のこもった説明でむしろその方が生々しく、貴重な体験談を伺うことが出来た。

2006年3月25日(日) ※昨年の旅の記録再掲
3年目になる『各駅停車・広島へ〜平和を考える旅』
昨夜来の雨が残る松本駅を定刻の6時37分に出発。今年の参加者は正晴君、雪穂さんの兄妹2人だけ。電車の好きな2人が、このちょっと無謀な計画につき合ってくれて、今年も「行き〜13時間」,「帰り〜26時間」におよぶ長旅に挑む。
乗り換え