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11月8日(木)
天橋立発9:00。京丹後市,豊岡市を経て香美町香住から山道を抜け、11:00に餘部橋梁下に着いて休憩,廃止される橋梁を見る。
余部鉄橋は、その高さと橋脚の美しさから多くの観光客や鉄道マニアを集め、90年以上にわたって地元住民に親しまれているとともに、日本海からの突風を受けて列車が転落し、多くの死傷者を出した鉄橋としてあまりにも有名である。

余部鉄橋列車転落事故〜ウィキペディア(Wikipedia)より。
『1986年(昭和61年)12月28日午後1時25分頃、香住駅より浜坂駅へ回送中のお座敷列車『みやび』が日本海からの突風にあおられて鉄橋中央部付近より機関車と客車の台車の一部を残して7両が転落した。転落した客車は橋の真下にあった水産加工工場を直撃し、従業員であった主婦5名と乗務中の車掌1名の計6名が死亡、客車内にいた日本食堂の従業員1名とカニ加工場の従業員5名の計6名が重傷を負った。
この鉄橋からの列車の転落は橋の完成以来初めての惨事であり、原因としては風速25m/s以上を示す警報装置が作動していたにもかかわらず列車を停止させなかった人為的ミスと見られている。
1988年(昭和63年)10月23日、事故現場に慰霊碑が建立され、毎年12月28日には法要が営まれている。』

余部鉄橋は、安全運行実現のためコンクリート橋に架け替えられることが決まり、現在の鉄橋については観光資源、鉄道文化資産としての価値から保存を求める声、保存経費や落下物の危険性を理由に撤去を求める声が相半ばしている。

この山を線路の高さまで登った所に餘部駅がある。

島に着いてすぐにトモさんが1人の青年を伴ってきて『新しいメンバーが加わりました』と言った。10年ばかりドイツにいて最近島へ帰り『素潜り』漁を始めたと言うその青年は3人兄弟の長男で、3人とも潜り専門の漁師だとのこと。
『類は友を呼ぶ』でこう言う同類的『お仲間』を見出すことにかけてはトモさんの嗅覚は鋭く行動は素早い。

釣りを終えて五十谷三島へ移動する準備をしていると、初老と言うには精悍な潮焼けした顔と小柄ながら逞しい体つきの人が『キャンプか?』と話しかけて来た。大きなリュックを背負っていたのを見て『俺も山をやっていたからよぉ・・』と言い、問わず語りに『横浜で高校の教師をやっていて最近島に帰って来た』こと,『島では潜りの漁を始めた』こと,『畑で野菜も作っている』ことなどを話し、『後でミカンを届けるから』と言って畑を見せてくれたりした。

後で分ったことだが、平郡島に渡る船に乗った時点から、我々の一行は全乗客の注目を浴びていたらしい。おそらくそれは最初に駐車場所を尋ねたグループが『松本から来たのか!』と目を丸くしていた時からのことなのだろう。そしてまた東港に着いた時点でそれは島中の人に知れわたるところともなっていたのだそうだ。
そう言えば釣りをしている時からチョコチョコと覗きに来る人がいたっけ・・。

島の人達のそう言う反応を代表していたのが先の2人なのだとすれば、この島は旅行者に友好的なのかもしれない。それはこの上なく有難いことだ。
実際,夜になって青年漁師から大きなアジやサザエ,アワビ等のピチピチの魚介類が、また横浜帰りの方からはミカンとサツマイモが届けられ、その言葉が決して外交辞令でないことが証明された。
この後,帰りの船の中でもまた新たな出会いがあるのだがそれは後に述べる。

3時頃まで釣りを楽しんで五十谷三島のキャンプ場に向けて出発する。道は集落の間の細い通りを抜けて右に折れそこから山道に入る。
道々,イヌマキの赤い果托を見つけて頬張る。味はイチイの実と同じで子どもの頃には生垣のこの実をよく食べたものだが今は見かけること自体が少ない。
アケビの実が落ちていた。地元の人の話しでは今が食べ頃だと言う。季節感がずいぶん違うのに驚く。ビワの花咲く年の暮れ・・,だがイヌビワの実はまだ固い。
青々とした葉と大きな実をつけているトベラだかモッコクだか定かでないツツジ科の木,ウバメガシの葉に似たアキグミの花・・,いずれも信州のそれとは違う,しかし見覚えのある植相に懐かしさを覚える。

30分ほど歩いて港のある集落を見下ろす峠に出た。船で無人島に渡してもらうのと違って、我が足で目的地に迫る途中で越し方を振り返り、目を転じてみかん畑の間から目指す浜を垣間見るこの峠からのこの景観が嬉しく美しく、そのアプローチにこそ意味があると感じながら時の経つのも忘れて眺め入る。