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プロフィール

  • ID: 1164
  • ハンドルネーム: ワンダーフォーゲル
  • 性別: 男
  • 年齢: 63
  • 住所: 大阪府 岸和田市
  • 所属クラブ:
  • 登録日: 2007年06月16日
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    2008年04月13日
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    山行日記山行フォトギャラリー (10) 10

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    再び大峰奥駈道南部を拓いた「新宮山彦ぐるーぷ」のこと

     大峯奥駈道の南部は30年ほど前までは藪で覆われ通行不能であった。僕らが若い頃は大峯奥駈を縦走するというのは太古の辻(前鬼)までの北半分を指していうのが普通だった。だから当時太古の辻より南を縦走するなどというのは考えられもしなかった。その後南半分が整備され、山小屋まで建設され維持管理され縦走できるようになった。
     道を拓き小屋を建てたのは、そして維持管理しているのは行政ではない。「新宮山彦グループ」という一民間団体である。そのことは縦走記の中でも何度か触れたことだが、この「ぐるーぷ」がどんな団体か、その代表の玉岡さんという人がどんな人か、かねてから関心があった。そして資金や労力はどうして確保されたかにも関心があった。昨年末に一応大峯奥駈道の縦走をやり終え、「大峯奥駈道縦走記」としてパンフレットにまとめ、知り合いに配るとともに、新宮山彦ぐるーぷ代表の玉岡憲明さんに送ったところ、丁寧なお礼の手紙とともに、これから紹介する「千日刈峰行と山小屋建設」という手記のコピーを頂いた。これを読むと「新宮山彦ぐるーぷ」のことや道を拓き、小屋を建てた苦労がわかった。
     この手記は「禅と念仏」という、宗教雑誌(しかも季刊雑誌)に寄稿されたものである。一般に知られた雑誌でもなく、恐らく一般に目に触れることはないだろう。これから南奥駈道の縦走をやろうという方も多々おられると思うので、少々長いが紹介しておきたい。
     僕には宗教心というものがまったくないが、宗教心がなくとも玉岡代表の思いは共有できるだろう。


    千日刈峰行と山小屋建設       新宮山彦ぐるーぷ代表 玉岡憲明

     子供の頃、我が家の門口に西国巡礼の遍路が立ち寄って行った。その都度、母親に指示されて一碗の米だとか、一銭の銅貨を喜捨したものであった。丁寧にお経を唱える人も居れば、乞食まがいの人は、すぐさま立ち去って行った。その頃より出家或は修行する人をお扶けするのは在家の勤めという淡い概念が芽生えていたのかも知れない。

      活動の発端

     私は三十歳頃から近くの山々に一人歩きを始めて山の魅力の虜になり、三十六歳で仲間達と山岳会を創立して一応、沢登り、岩壁登攀や冬山等をこなすことが出来るようになった。
     山の自然をもっと広い層に知って貰う目的で「山を歩いて自然に親しみ、体験を通してモノを考えよう」との趣旨で、新宮山彦ぐるーぷを創設したのは三十二年前のことであった。そのような折りに前田勇一さんと知り合ったのである。前田さんは田辺市(旧万呂村)の出身で信仰に篤く、当時の太峯奥駈行が、吉野から太古ノ辻までで、途中から下山するのに不審を抱き、要路に何故、南半分を割愛するのかをただしたところ、明治初年の神仏分離令、修験道廃止令の打撃を受けて、修験道は衰退の一途を辿り、僅かに吉野−太古ノ辻―前鬼の北半分が命脈を保ち、南はいまは薮に覆われて通れないと知ったのである。
     前田さんの前身は、戦前戦後を通じて可成り大規模な鉄工場を経営して、三百二十名もの従業員を擁し、文豪志賀直哉や音楽家の朝比奈隆とも交際したと聞いている。前田さんの見識の高さや博学にはいつも驚かされたものであった。
     その前田さんは一念発起して「さびれた南奥駈の道をよみがえらせ、日本古来の精神文明を見直そう」の趣旨で奥駈葉衣会を創設された。地元である新宮に住む我々として傍観できず、早速二十余名が入会して積極的に行事に参画したのである。
     前田さんは知合った頃、すでに喉頭癌におかされていて、声はかすれ、疲れると声は聞きとれない状態で苦しそうな様子であられた。何処の病院でも「あなたは癌です。手術しなさい」と言われても頑として拒否され、持経宿山小屋を建設し、その一年半後六十八歳を一期として亡くなられてしまった。
     病状が進行し入院中も、大峯に切々と想いを馳せたお手紙を頂き、前田さんの並々ならぬ想いとその偉大さに打たれた私であった。前田さんがこの世を去られて奥駈葉衣会は大黒柱を失って自然解散となった。その遺志を何とか継承しようと私達の新宮山彦ぐるーぷが立ち上がったのである。

      千日刈峰行

     それは薮で覆われた南奥駈の峰筋の刈り拓きである。行者の千日回峰行になぞらえて私達は千日刈峰行と銘打って昭和五十九年(一九八四)、前田さんが亡くなられて二年後、その緒についた。道の刈拓きは大勢の人に歩いて貰うためのもので、これは利他行であると共に、自分自身の行として取組もうと仲間に呼びかけた。当時の山彦は手持資金もなく、外部からの援助もなくて、その都度、参加費を醵出しての珍しいボランティアで、誰一人不満の声は出なかった。
     太古ノ辻から熊野本宮までの距離は、その都度巻尺で実測して四十五キロ、その内刈拓部分二十四キロを四十七名の仲間が三ヵ年、二十四回の出勤で閉ざさた道が招かれたのである。身の丈ニメートルを越すスズタケ帯は道幅五メートルを刈らねばならず、手前に倒れ込んで来るので、鋸の回転は止まり、暑い夏は風が通らず汗と埃にまみれ、まつわりつく蚋に悩まされ、また雨の日が多く、冬は浅い雪を踏んで殆んどテント泊りを重ねて延べ三百十五日で完通したのである。引揚げる折りは、まるで高速道路としてよみがえった道に満足して、次回への意慾を燃やしたものだった。
     一巡目が終った頃には、はや次の芽がいっせいに生えて、竹の繁殖の旺盛に僻易させられたものだったが、三巡目を終える頃には流石の竹も根負けして根が枯れ、繁りは鈍化した。でも台風のあとは百余年のモミ、トガの巨樹が倒れて道をふさぎ、何台ものチェーンソーで倒木との斗いが毎年のように繰返されて来た。

      行仙宿山小屋建設

     道は良くなったが、玉置神社から持経小屋の間は遠過ぎて、新客は連れて来れないと、第一回熊野修験参加者の山口念誦師(別府市の行者)から指摘されて、ここに新たな大問題が立ちはだかったのであった。これには心底、当惑した。弱小団体の山彦に山小屋を建てることは可能であろうかと。せっかく五ヵ年かけて道を拓いたのに利用されないとなれば元の木阿弥で、無駄骨に終る。と考えるとやらねばならぬ。幸いここは単なる山道でなく、大峯修験の道復興という旗印があり、山彦ぐるーぶの五ヵ年にわたった刈峰行の実績がある。
     その問題点は、
    一、資金を集められるか。(当初予算一、二〇〇万円、完成時一、八○○万円)
    一、水場が近くにあるか。
    一、敷地の借用とその造成−労力奉仕に頼る。
    一、建築を引受けてくれる棟梁の確保。
    一、ヘリコプターでの荷上げ。
    等々。そのーつが欠けても不可能なのだ。
     資金の方は公共の避難小屋を建設するという大義名分と刈峰の実績が評価されて、どうにか達成された。水場はきわめて不便かつ険阻なところで発見されたが、三度にわたる改修で安心して往来出来るようになり、水の価値認識に効果を挙げることとなった。
     敷地の借用は、下北山村と地主の交渉でお願いしたが、仲々難航して村長と製紙会社社長に要請談判をして解決したものの、その造成は、すべて手作業であったため、遅々として進まず、止むなく設計変更で、奥行をニメートルを縮め、その上、奥側約四メートルは床を高くすることをした。床下の岩盤掘削に手を焼いたのである。そのため、五十人収客予定が四十人となってしまった。
     平成一、二年はバブル経済の時代で、わざわざ山中へ出張って山小屋を建てようという棟梁は皆無であったが、私達と縁故のあった木下棟梁が理解してくれ引受けてくれたのである。仲間が敷地造りに汗を流していた頃、黙々と一大木を彫り、鮑をかけて用材作りをしてくれていたのである。
     九月から四月にかけて漸く敷地が造成され用材も仕上がったところで、砂、バラス等の建築資材と共に大量の荷物がへリポートに集められ、ヘリコプターに依る荷上げとなった。ヘリの飛行は天候に左右され、一方、ボランティアの作業員は日程に束縛されるものだから、日程が一日ずれても収拾がつかなくなる事態となる。幸い、辛うじて予定通りに運び、二日間、九三便五七トンの荷が無事上げられた。
     それより基礎工事、引続いて泊り込みでの建築工事は夜を日についでの追い込みで六月末日竣工し、聖護院山伏その他の方々が大雨の中、採灯大護摩供を奉修して下さって無事落慶となった。
     その後は小屋回りの土のうに依る仮積みを石積みにやり替え、上面にコンクリートを敷き、木場径を改修し、新しく補給路を開設するなど、現在も手入れが続いている。

      なぜ行者を接待するか

     太古ノ辻から南、熊野本宮への通が拓かれ中継の山小屋が出来たことから、修験各教団も、吉野から或は熊野本宮から奥駈修行に取組むようになると共に、登山者もその流れが増えて来た。前田さんが提唱された「日本古来の精神文明を見直そう」の趣旨は、深仙宿での六十日断食行中、釈迦ヶ岳登拝や、大日岳鎖場登挙というすざましい荒行を折りまぜた伊富喜秀明行者、大峯順逆三十三度抖擻行の佐藤貫道行者などの修行に現われ、そこに修験道の極致を垣間見る想いの私である。
     宗教とは何か。人間の心の拠り所であり、心身の浄化であり、宗教人は人生の生老病死の救いをしなければならぬと思う。かのベトナム戦争で、毎日のように、僧侶が政府に即時戦争を止めるよう焼身自殺を以って抗議されたのを新聞、テレビで報道されていだのは忘れられない。修験道の極致、捨身の行を挑むベトナム仏教にその貞節を見る想いがしたものだ。
     最近、登山者の方から「山彦は行者さんの三度の食事を接待されていると聞いておりますが、我々登山者は、すべてのものを携行して自炊でやっています。行者は甘いのではないか」と疑問を投げかけられることがある。それに対して私は「あなた方登山者は自分の楽しみで山を歩いているので、自炊は当然です。だけど行者は修行のために山を歩いていて目的が全然違います。行者の修行の暁には人を救う、という目的があり、その修行を扶けるために接待をしているのです」と答え、一方、行者の方々には「その目的を忘れないよう一生懸命修行して下さい」と申し上げている。

      十三名の故人

     新宮山彦ぐるーぷが二十年余にわたって取組んだ千日刈峰行や山小屋建設は、前田勇一翁の遺志を顕彰する目的で敗組んで来たものではあるが、「成功は目的ではなく結果である」との諺の通り、世界文化遺産へもいささか貢献し、修験復興隆の一翼を担うことが出来た。前田翁の先見の明を今更ながら感じている。
     二十年余、志をーつにしてここまでやって来た仲間は貴重な宝である。この世を去って行った仲間は十三名の多さになっている。私は行仙や持経宿のお堂で勤行する折には不動明王をはじめ役行者、実利行者、前田大先達、伊富喜師、佐藤師と共に友の冥福を祈って二十二本の線香を手向けている。「山は神 人は宝」と信じている私である。
    2008年04月26日 by ワンダーフォーゲル | General | 1 コメント | No Trackbacks |

    「山のパンセ」(串田孫一著、集英社、1990年6月)

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     この本は1957年に最初のパートが出版された。ついで1962年に「山のパンセ2」が、翌63年に「山のパンセ3」が出版された。1966年に「新版山のパンセ」(上下)、1972年に「山のパンセ」(全一冊)にまとめられている。僕が手にしている集英社文庫版は、第1刷が1990年だから、その時点でも30年以上読み継がれていることになる。なかば山のエッセイの古典になりつつある。石井光造氏によると「当時山好きの若者たちが熱心に読んだものであった」(「もっと知りたい日本の山」)という。

     収められている文章は1955年から65年までのほぼ10年間、著者が40代の時に書きつながれたものだ。なにしろ全3冊を収めたものだから、文庫本とはいえ小さいフォントで450ページを超える大著である。しかも著者独特の詩人らしい独り言のような文章と、音楽や絵画にも及ぶ話題(もちろん山にかかわっているのだが)はなじみやすいとはいえない。慣れにもよるのだろうが、読み通すにもエネルギーがいる。

     とはいえ繰り広げられている山への思いは深く広い。著者は相当の分量を費やして山の愉しみを語っているが、山の勧めを決してストレートには語らない。むしろ本式の山登りは、苦しいことであるし、不合理で愚かなことで恥ずかしいことであると繰り返しいう。

     「告白」では、「山登りの悦びを語るのをはばかるようになった気持ちをもう一歩おしすすめてみれば、山での苦しみは決して現代の人たちにふさわしいものではない‥‥私はあえて、山登りは、しなくてすむ人にはやめた方がいいということにした」という。

     「断想」では、「山登りはその行為自体が単純であり、愚鈍であるから、よほど熱中して、われを忘れ、家を忘れ、親兄弟友人の心配を無視し、つとめを忘れ、仕事を忘れ、学生はまず学問を忘れないと山登りを続けて行くことはできない」ともいう。
     また「仮に高校時代に山登りをはじめ、山を登りながらいい成績をとり入学試験にも合格をし、大学を出ていい会社へすらっと入るようなことを考える人がいるかもしれないが、これは大変不心得な人であって、こういう人は試験に落ちないとすれば山から落ちるだろう。これは私としては失言だったとは思わない」とまでいいきる。
     
     こういう厳しい謂は、僕らが若かった時代はともかく、今の若い人に容易に受け入れられないだろう。しかし著者はそれぐらい真剣な気持ちで山に向き合ってこそ、悔いなく山を勧められるし、捨てるもの以上に得るものがあるといいたいのだろう。

     岩波文庫版にも「山のパンセ」があるが著者の自選によるもので集英社版より分量が少ない。
    2008年03月25日 by ワンダーフォーゲル | 山の本の紹介 | 3 コメント | No Trackbacks |

    山スキー練習にもってこいのニセコスキー場

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     13日から4日間ニセコスキー場に行ってきた。この時期としては異常に暖かく、北海道のスキー場らしくもないじゅくじゅくの雪質だった。そのうえガスと雨にたたられた。となれば滑りは散々だったということになるのだが、そうともいえない。
     僕がスキーをやる究極の目的は山スキーにある。山スキーの醍醐味と野趣は他に代え難い。この年になってこれから何度その機会に恵まれるかわからないが、山の斜面を滑降する足前は絶えずみがいておきたい。じゅくじゅくという雪質はゲレンデスキーをやるには最悪だが、山スキーは何でもありの斜面だ。どんな雪質であろうが、どんな斜度の斜面であろうがクリアしなければならない。それにガスと雨。山スキーは天候を選ばない。晴れを選んだとしても天候が急変することはしばしばありうる。ガスと雨も格好の練習の条件である。
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     それでも最終日(16日)は少し冷え込み、ガスが取れた。形のいい羊蹄山が眼前に姿を見せた。前日まで悪天で運休していたトップリフトが稼働し、真っ白のニセコアンヌプリの山頂直下に降り立つと一木もない斜面は全山が滑降のエリアが見下ろされる。もちろんポールで圧雪のエリアが指定されているのだが、自由に非圧雪の斜面に躍り出ることができる。少し高度を下げれば林間の非圧雪の斜面を滑ることもできる。こういうスキー場は他に知らない。
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     非圧雪斜面に出ると、僕の足前では滑りにくい少し凍結した圧雪斜面より滑りよい。滑りよいというより安定して下降できるといった方がいい。そもそも山スキーは斜面を滑る醍醐味がたまらないのだが、斜面を安全確実に下降するという意味合いが小さくない。
     北海道まで足を伸ばし天候に恵まれなかったが、ニセコスキー場は山スキーの練習場にもってこいのゲレンデだった。

    2008年03月17日 by ワンダーフォーゲル | 山のエッセイ | コメントを書く | No Trackbacks |

    「日本アルプスの登山と探検」(W・ウェストン=青木枝朗訳、岩波書店、1997年6月)

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     ウォルター・ウェストンは1861年に英国ダービーに生まれた。神学を学び、1888年(明治22年)、英国聖公会・教会伝道協会(CMS)派遣の宣教師として来日、熊本、神戸の教会に籍をおいて足かけ7年滞在し、その間1890年に富士山をはじめ九州の阿蘇山、祖母山、霧島山、桜島などに登った。

     1891年(明治24年)から1894年にかけての4シーズンは中部地方の山岳地帯を集中的に探検し、その紀行を1896年に「日本アルプスの登山と探検」と題してロンドンのJ・マレー社から出版した。英文でロンドンで出版されたのは、ウェストンは英国民に読まれることを前提にしていたからだ。

     越中・飛騨・信濃にまたがるこの山域をはじめて「日本アルプス」と呼んだのは、お雇い外国人として大阪造幣寮で鋳貨の指導に当たっていたウィリアム・ガウランドだが、それを単行本の表題に用いたのはウェストンのこの探検記が最初で、これをきっかけとして「日本アルプス」という呼称がしだいに広く通用するようになった。

     この探検行に先立つ1890年、ウェストンはCMS宣教師の職を辞している。探検行にそなえて職務の制約から解放されたかったのだろう。それほどまでにしてウェストンが山に取り組んだのは何故だろうか。

     17世紀以来、英国の上流社会では、子弟の教育の総仕上げとして成人前の若者を大陸旅行(グランド・ツアー)に送り出す習慣があった。それはいうまでもなく、見聞を広げ、旅先での危難に対処する勇気、才覚を養うためだったが、このグランド・ツアーの大きな収穫として、冷涼・陰鬱な高緯度地方に育った北方人が、アルプスの雄大な景観と、この山脈を境とする南北のまったく対照的な温暖・晴朗なイタリアの風光、明るい都市や壮大なローマの遺跡にはじめて接すると、その印象は人生観を一変させるほど強烈なものがあるといわれている。

     ウェストンがはじめてアルプスを訪れたのは1878年、17才の時で、2回目は1883年、本格的に登山をはじめたのは、1886年からで、兄ロバートとともにブライトホルン、マッターホルンその他に登った。翌1887年にはヴェッターホルンに登り、危険度の高いトリフトヨッホを越え、マッターホルンに再び登頂、さらにユングフラウとアイガーを狙ったが悪天候のため挫折した。このときすでにウェストンは登山の魅力にとりつかれて、「山こそわが友」という終生のモットーを胸に刻みつけている。

     ウェストンが日本に赴任したのは、教会の宣教方針に沿ったものと考えるほかはない。しかしその胸中に、アルプスで点火されたばかりの山への情熱を注ぐにふさわしい舞台を求める気持ちがうずまいていなかったはずがない。

     ウェストンは、日本にもスイス・アルプスに匹敵するすばらしい大山脈があることを知ったのは「チェンバレン教授の熱心な説明」を聞いてからだという意味のことを本書の冒頭で述べているが、それはいつのことであるかは分からない。

     以上は訳者の青木枝朗氏の解説の要約である。 

     ウェストンのこうした来日前の「前史」を知ると、ウェストンが無類の山好きであったこと、そして彼が宣教師の職を辞してでも何故日本の山を探検し歩き回ったか、がよく分かる。そしてヨーロッパアルプスを渉猟した人の目からみても、中部山岳の山にアルプスの名を冠しても恥ずかしくなかった。仮に日本人が日本アルプスと命名したのだったら、果たして日本アルプスの名が定着したかどうか分からなかったかもしれない。
     なお、ウェストンが書名を単に「日本アルプスの登山」とせずに「探検」を入れたのは、その土地の猟師はともかく、一般には飛騨や越中の山奥はまだ知られていなかったからだ。

     「日本アルプスの登山と探検」の内容を紹介するスペースはもうないが、ヨーロッパ人からみた登山や周辺の民情がユーモアに満ちた文章で綴られている。織り込まれている写真は100年以上も前のもので、当時の登山と風俗がよく分かる。訳文も平易だ。
    2008年03月11日 by ワンダーフォーゲル | 山の本の紹介 | コメントを書く | No Trackbacks |

    「新宮山彦ぐるーぷ」のこと

     昨年末にまとめた「大峯奥駈道縦走記」を「新宮山彦ぐるーぷ」代表の玉岡さんに送ったところ、昨日丁寧な手紙と資料が届いた。メールですませないどころか、ワープロでもなく直筆の手紙であることが82才という世代を感じさせる。「新宮山彦ぐるーぷ」とは南部大峯奥駈道の整備と3つの山小屋の建設と維持管理しているボランティアグループのことである。
     「小生一人が温存するには惜しく、取りあえず二〇部を南奥駈道に限ってコピーさせて頂き、私共の幹部に配布させて頂きました。何卒ご了承ください。‥‥是非行仙宿をお訪ねください。一献傾けて山の話を交わしたいものですね」と認められている。そして「幹部」に配布したコピーの添え書きも添付されていた。「『大峯奥駈道縦走記』は、我々南奥駈道や三カ所の山小屋管理に当たっているものにとって、その登山意欲もさることながら、山小屋の管理は如何にあるべきか、についても示唆されるところが沢山あり、勝手ながら『釈迦ヶ岳〜上葛川』の区間をコピーさせて頂きました。ご覧ください」とあった。玉岡さんだけでなくコピーされて読まれているとしたら書手として望外の喜びである。

     さて、「山小屋の管理は如何にあるべきか」ーそのことに少しでも役立つことを書いたかいな、と気になった。あらためて読み返してみると、思い当たるところがないではない。
     転法輪岳(持経ノ宿から行仙岳)の項(2007年9月28日の山行)で「平治ノ宿」に着いた際のことを次のように述べた。
     「十数人は収容できそうなこじんまりした小屋だ。清潔である。水や非常食、燃料が備え付けられ、蚊取り線香まで用意されている。水は採取した日付が記されていて安心して利用できる。商品は料金を自主精算することになっている。実に心がこもった小屋だ」。「大峰山系ではここ数年で避難小屋が相次いで建て替えられた。狼平避難小屋といい、行者還避難小屋といい、楊子ノ宿小屋といい、国や県、市町村が建てた小屋はいずれも判を押したようなログハウスだ。見かけはしょう洒だが、果たして『新宮山彦ぐるーぷ』の手になる小屋のように登山者を優しく迎え入れているだろうか。建物は新しく機能的であるのがいいに決まっている。しかし建物に魂を入れるのは人である」。
     玉岡さんは示唆されるところがどこか書いてないが、引用した箇所あたりではないか。僕は率直な感想を書いたまでだが、そのことが彼らの励みなるのだったらこれまた喜びである。

     併せて宗教雑誌「禅と念仏」第22号に寄稿された「千日刈峰行と山小屋建設」のコピーも同封していただいた。この文章を読むと玉岡さんがなぜ「新宮山彦グループ」を立ち上げ、南奥駈道に山小屋建設と南奥駈道の整備を思い立ったがよくわかる。前回たまたま行仙小屋に滞在していた玉岡さんとしばし歓談しただけだった。僕は宗教心を持たないが山岳宗教には関心がある。お招きを頂いた「行仙ノ宿」に近い将来再び訪ねて、山と山岳宗教について夜を突いて歓談したいものである。

    2008年03月04日 by ワンダーフォーゲル | 山のエッセイ | コメントを書く | No Trackbacks |

    100円コーヒーで気持ちのいい一日が

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     健康診断で腎嚢胞がみられるとのことで精密検査することになった。診療所のドクターの話では嚢胞とは袋のことで、腎臓にこびりつくように薄い膜の袋ができて、中にはリンパ液が詰まっているという。よくある症例で悪性ではないらしい。まだまだ登りたい山や滑りたい斜面がある。ここでくたばるわけにはいかない。念のためにCTスキャンで精密検査することになった。わが内臓君は60年余も不平も言わず黙々働いてきたのだから故障の一つも出てくるだろう。
     大阪市鶴見区にある、指定されたヘルスコープ病院へ行くと、ホテルのような広々とした待合い所や各科がレイアウトされており、およそ病院という感じがしない。元は大阪市中央区に、つまり大阪市の都心部にあったが、ドーナツ現象で人口が減り経営が苦しくなって、人口が増加している大阪市の周辺部へ移った病院である。設立運営主体は医療生活協同組合。移転に当たって組合員の1人として若干の寄付をさせてもらった。

     CTスキャンの検査は始めて受けたが、胃透視のように造影剤の服用も、胃を膨らませるための炭酸の服用も、筋肉弛緩剤の注射もない。しかもカッターシャツのまま寝台に乗り、わずか数分で検査を終えた。小一時間はかかるかと思っていたのに拍子抜けである。
     支払いをするために待合いの広々としたオープンスペースに行った。待っている間に辺りを見回すとコーナーでコーヒーサービスをやっているではないか。エプロンにスカーフをつけた10人ぐらいの女性がかいがいしくコーヒーをたてている。支払いまでに少し時間がありそうなのでテーブルが空くのを待ってコーヒーを頼んだ。今朝は絶食だった。出されたコーヒーには手作りとおぼしきミニ蒸しパンが添えられている。それで100円というのである。コーヒーの香ばしさが空きっ腹にしみこんだ。
     彼女らは胸に「やすらぎ」というプレートを下げている。きっと医療生協組合員らによるボランティアグループだろう。自分たちの病院にきた患者らにできるだけ気持ちよく利用してもらおうという思いがボランチィア活動を支えているにちがいない。一般病院にも業者が入った喫茶室をみかけるが、たいがい3〜400円はする。ボランティア活動だから利益を出す必要はない。100円というのは原価に若干の運営資金が確保されればいい価格設定だろう。彼女らも生き生きして明るい。

     小泉政権以来「構造改革」が声高に叫ばれ、それに反対するものは「抵抗勢力」としてパッシングされた。その結果どうなったか。世の格差と貧困が拡大し、働いても働いても貧乏なワーキングプアを生み出した。年収200万円以下が1200万人という。並の規模ではない。大企業はバブル期を上回る利益を上げている。何のことはない、リストラをやり、正規労働者を低賃金の非正規労働者に置き換え、人件費を削った結果にすぎない。原則禁止の派遣労働を規制緩和してほとんどの職種に広げた結果だ。この法案に賛成した自民も公明も、それに民主も責任をとれといいたい。「勝ち組、負け組」や「自己責任」論が横行し、弱肉強食の寒々とした嫌な社会になったものだ。連帯感が失われ、潤いのない社会になったと感じる。
     しかし彼女たちを見ていて、どっこい温もりは生きていた。会計で5020円の窓口負担は堪えたが(この自己負担増も「構造改革」の結果なのだが)、100円コーヒーは今日一日いい気分にさせてくれた。

    2008年03月03日 by ワンダーフォーゲル | General | 3 コメント | No Trackbacks |

    「名山の日本史」(高橋千劔破著、河出書房新社、2004年3月)

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     本書は全国の名山・40座についてその歴史を紹介した、470ページ及ぶ大著である。名山の紹介だから深田百名山とかなり重なるが、そうでない山(榛名山、武甲山、高尾山、大山、箱根山、戸隠山、比叡山、鞍馬山、熊野三山、六甲山、高千穂峰、雲仙岳)も取り上げられている。

     著者は冒頭の章で日本の宗教と山について次のようにいう。
     古くから名山とされてきた山はたいがい、水の神としてあるいは農耕神としてあがめられてきた。そういう素朴な原始信仰が、はっきりと宗教性を帯びるのは、仏教伝来以後のことである。平安時代以来、仏・菩薩が衆生を救済するために姿を変えてあと(垂)をたれ(迹)たとされる(本地垂迹説)。つまり神と仏の一体説だ(神仏習合説)。全国の名山とよばれる山は、おおむね神仏一体の山岳信仰の霊場として栄えていく。
     だから山は僧によって開かれた。名山にはその山麓や山腹に寺院が建立され、神社が併設され、山上には社が置かれ神が祀られた。「蔵王権現」にみられるように全国の名山に権現が多いのは、仏・菩薩が集生を救うために権(かり)の姿となって現れること、すなわち権現であるという思想によるものだ。

     寺院は僧が悟りを得るための修業の場であり、俗界を離れた山上や山中に開かれた。平地の寺院であっても山号がつくのは、その名残りである。「山寺の和尚さん」とか「山のお寺の鐘が鳴る」と童謡にうたわれるごとく、今でも山岳寺院は少なくない。
     ところが、日本の名山の多くには寺がない。あるのは神社だけだ。寺があってもほとんど目立たない。名の知れた山の山頂に建つのは、たいがい祠だけである。各地の名山の多くは、神社によって立つ霊峰であり、神々の鎮座する山となっている。

     なぜ名山から寺があっても消えてしまったのか。
     著者は慶応4年(明治初期の元年=1868年)に新政府によって出された神仏判然令(神仏分離令)と、その結果起こった廃仏毀釈運動がその元凶であると告発する。神仏分離・廃仏毀釈こそは、日本史上最大・最悪の宗教弾圧であり、文化破壊であったとも。
     日本のにおける宗教、日本人の信仰は、千年以上の長さにわたり神仏一体となって栄え、つづいてきた。それを明治新政府は、神道のみを唯一の国教と定めて、仏教を排斥しようとしたのである。その結果、日本各地の名山、神仏習合によって栄えた山岳宗教の霊場は、ほぼ例外なく仏教色を排除してしまったのだ。
     著者は古来名山と呼ばれてきた日本の山々には、ほぼ例外なく名刹があった、という事実を明らかにすることも本書の趣旨の一つだといっている。
     
     ちなみに、小生の知り合いが「『歴史散歩』の記録」(稲垣泰平著、文芸社出版)という本を最近出版した。教えられたことがある。おおよそ次のようにいう―「神社というのは、もともと村という共同体の繁栄を願ってつくられたものだ。仏教の伝来によって日本の寺院は神仏習合となったが、明治政府は寺を追い出して神社にしてしまった。そして村という共同体の繁栄を願う神社を強引に国家神道(アジア侵略につながる思想)に統合していった。明治政府は神社が多すぎると国家神道をつくりあげていくために支障をきたすので、村ごとにあった神社(村社)を強引に統合(合祀)をすすめた」。
     明治政府は寺を山から消しただけでなく、共同体の繁栄を願う村ごとにあった神社を国家神道にしやすいように無理に統合したことがわかった。
    2008年03月02日 by ワンダーフォーゲル | 山の本の紹介 | コメントを書く | No Trackbacks |

    「霧の南アルプス」(窪田精著、新日本出版社、1994年4月)

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     短編小説集。山好きの著者だけあってすべて山に関わっている。小説だからフィクションである。フィクションだがほぼ体験にもとづいたものだろう。著者と等身大の主人公(比沼)は、尋常小学校の男子同級生40人の約半数を戦死で失う。

    ●「八ヶ岳にて」‥‥子供らから慕われていたその担任の教師は、徴兵され戦地から復員してきてから、深酒し嫌われ者に変わってしまう。比沼は6年の時その青年教師に引率されて登った権現岳に再び登り、その教師がなぜ変わってしまったのか回想し、兵役の非人間性を告発する。

    ●「雹の降る丹沢」‥‥東京に出た同級生が苦学生活に疲れて海軍航空隊に志願する。厚木基地の上等飛行兵曹だった彼は丹沢山中に墜落、死亡する。後年「丹沢山中に墜落機ー残がいと白骨発見」という新聞記事を見て、丹沢山塊の蛭ヶ岳登山を思い立ち、同級生を回想する。

    ●「霧の南アルプス」‥‥当時「兵隊に行くのを嫌い、入営を拒否して山で死んだ」という、北岳で遭難した同級生の噂が広がった。後年その同級生の遭難碑を訪ねて北岳をめざしたが、遭遇したのは浩宮の一行。大随行軍団のためにぎゅうぎゅう詰にされた山小屋の気分を描く。

    ●「雁ヶ腹摺山」‥‥小学校の同級生が転校した先の金鉱精錬所が閉鎖になり、生活に窮した老坑夫らが炭焼きを始めたが、恩賜林を切り出してしまう。監視員をしていた同級生も懲役刑を受け、ために遅れて入営した彼が「前科者」扱いされる悲惨を描く。

    ●「富士山頂まで」‥‥反戦活動で入獄し、南方の島に送られていた5年間、母親は村から80キロも離れた三峰神社へ願かけに毎年通い、浅間大社奥宮めざして富士山頂にも登ったことを没後耳にして富士登山を思い立つ。
     「日本じゅうの若い衆が、みんな戦争に行っていたときじゃ、表向きは戦争祈願ーーといって登るんじゃが、出征しているわが子の無事を祈りに登る親や、老人などが多いようじゃったな‥‥」という叔母の話はリアリティがある。

    2008年02月22日 by ワンダーフォーゲル | 山の本の紹介 | コメントを書く | No Trackbacks |

    「山の頂の向こうに」(田部井淳子著、校成出版社、1995年11月)

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     著者は女性としてエベレスト初登頂したばかりでなく、7大陸の最高峰に登頂している著名な女性山岳家だ。

     このエッセイ集が出版された56才の時に、すでに50座以上海外の山に登っているというからすごい。43才で30キロ青梅マラソンを完走し、45才からスキーをやり始め、54才の時運転免許をとったという。「英語もさらに勉強したい」「和太鼓などの伝統芸能にも憧れている」「シャンソンも歌ってみたいし、謡曲もやってみたい」「お琴のけいこにももっと通いたいし、ジャズピアノやドラムにも興味がある」という。もちろん「登りたい山の計画はたくさんある。どんな小さな国の、どんな小さな山でも、その国の最高峰というのがある。それにも興味がある。北極や南極点にも立ってみたいし、スペースシャトルに乗って宇宙から地球を眺めてもみたい」という。

     最近の著者のホーページをのぞくと、2000年3月、九州大学大学院比較社会文化研究科修士課程修了(研究テーマ:エベレストのゴミ問題)とあるし、現在年7〜8回海外登山に出かけ、現在までに55ヵ国の最高峰に登頂とある。

     このパワーと好奇心は一体どこから出てくるのか。「日本女性の平均寿命まであと30年近くある。ますますギンギンに燃えながら、自分らしく密度の濃い?生?を重ねたいと思う」と結んでいる。

     「お茶碗を洗うのなんかいいよ。そんなの誰がやったって同じなんだから。お母さんは、お母さんにしかできない原稿書きや、FAXの返事や手紙の整理をすれば」といってのける夫さんも、またまたできた人である。

    2008年02月20日 by ワンダーフォーゲル | 山の本の紹介 | コメントを書く | No Trackbacks |

    「エベレスト・ママさん」(田部井淳子著、新潮社、1982年2月)

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     著者がエベレストに登頂したのは1975年5月、35才の時である。3才の女児の母だった。そのエベレスト登頂までの著者の山登り半生記。半生を語るにはちと早い年代だが、何しろ女性として世界で初めてエベレストに登頂したのだから注目されて致し方ない。

     この本の半分以上は女性だけのパーティで登ったアンナプルナ峰とエベレストの二つの8000級の登頂記が占める。感情的になりやすい女性登山隊は「女のたたかい」でもあったと赤裸々に記されている。

     エベレスト登頂の際には7000越のローツェフェースで雪崩に巻き込まれる。一時は登頂中止かという事態に追い込まれるが、類い稀なる意志で登頂にこぎつける。それだけでなく著者らは企画の段階からさまざまな困難に追い込まれるが、企画を実現させエベレストに立てたことについて「アンナプルナ以来、ヒマラヤ登山は技術とか体力も必要だが、特に必要なのは『本当にやるんだ!行くんだ!』という意思だと思うようになっている」と述べている。

     事ほど左様に山狂いを自認している著者のことである。山キチは多々あれど、それほどに希有な山狂いはどうして生まれたのかと自ずと興味がわく。
     「中学から高校時代は、毎日がバイオリンとピアノとコーラスの練習に占められいる平凡な女生徒にすぎなかった。しかし、ゆっくりでも一歩ずつでも登れば頂上に立てるということが、体育に劣っていた私に自信を持たせたのは確かなことだった」「ただひたすら、一歩一歩登るという行為、何のためなどという理屈もなにもなく、ただ体を使う動作の中に私は自分の確かな存在を意識することが出来た。そして頂に立つというひとつの区切りある山登りが、私に確かな満足感を与えた。山をとりまく自然の広がり、空気、あらゆるものが体中の臓器にしみわたる。ここにいる自分が本当の自分なんだ、一歩一歩汗して歩いたからこそ今ここにいるんだという自己存在を、私は山登りによって存分に味わうことができた」と山登りの魅力を語る。

     登山は自己の存在を確認するきわめて人間的営為といえる。だから登山は古来より万人を引き付けてやまないのだろう。

     この作品は最初1979年12月「山と渓谷社」から出版された。yama-kei classicシリーズの一冊として、新たな解説などもくわわり復刻版が発行されている。

    2008年02月18日 by ワンダーフォーゲル | 山の本の紹介 | コメントを書く | No Trackbacks |
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